デウス・エクスの近未来世界・「Deus Ex: Human Revolution」感想 考察

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 デウスエクスはmk2にレビューを投稿させて頂きました

 ブレード・ランナーの近未来世界から幾十年、それからAKIRAや攻殻など多数のフォロワーが現れ、それぞれ追求するテーマは未来の憂鬱な光景の実現からシリアスなテクノロジー論まで多岐に渡るが、オレ個人としては前のエントリでも書いたけどビデオゲームの中で実現される、CGで構築された近未来光景がもっとも思索に富むのだ。

 小島秀夫のスナッチャーから初代プレステのファイナルファンタジー7・クーロンズゲート、そしてバイオショックなどに繋がる、デウスエクスから紐解くブレードランナーの遺伝子、近未来光景としてのビデオゲーム、場合によっちゃ「今現在の世界の基調は80年代が成立させたのでは?」というアクロバティックな仮説も含むエントリ。

 タイトルは町山智浩さんの「ブレードランナーの未来世紀」のパクリです。この本は80年代アメリカ映画の代表的な作品を再評価・歴史的な意味を検証していくというもので非常に面白く、そのトリを飾るブレードランナー評のテーマとして、やっかいな言葉だけど「ポストモダン」「近代(モダニズム)の終焉」としての近未来の世界、ということを語っており、純粋な進歩や美しき未来を夢見る光景としてのモダンの流れが行き詰ってしまい、何か新しいものといっても過去にできあがったものの組み合わせいや繰り返しばかりになってしまったといい、それを象徴したブレードランナー登場以後の未来世界はAKIRAも攻殻もみんなブレードランナーになってしまった。という話だ。サイバーパンクの勃興の時期ゆえにその光景とも称されもするが、80年代以後の進歩の時代の終焉の後の、憂鬱な未来光景を先駆的に提示していることが大きいのだという。今回はこの視点をビデオゲーム側に援用して語ってみようと思う。

 ブレードランナーというのがそのように完成された現代世界の先の見えない未来を描く視点や方法を発見し、その手法が例えば「AKIRA」「攻殻機動隊」のような漫画やアニメから、さらに重ねてその手法を使ってビデオゲームの「ファイナルファンタジーⅦ」「クーロンズゲート」にまで繋がり、(厳密にはアメリカのPCゲームの系譜ではあるが)この「デウス・エクス」に至るまで、真夜中の都市に浮かぶネオンサイン、電光掲示板、広告群を覆うように降る雨と霧という、数多くのフォロワーが生まれたリドリー・スコットの映像演出は未だに、進歩していく夢見る未来を失った現代が見つめる未来と言うものに対して強い意味を放ち続けている。

 オレ個人は「進歩を見失った未来の光景」としてのブレードランナーの光景が、スーパーファミコン・メガドラ・プレステ・サターン・64期に移り変わる際に、特にソニーのプレステがハイライトにしていた「ゲームと言うジャンルをメディアに」というゲームのジャンルの進歩を示そうとした流れの代表作とも言える「FFⅦ」と「クーロンズ」に大きく受け継がれていることが非常に印象深く残っている。

 以後のゲームも映画も飛躍的にCG技術が進歩するなかでそうしたブレードランナー的な頽廃した風景は見られにくくなったとはいえ、ゲームが、あるいは海外に評価されるジャパニメーションなどと呼ばれたアニメが、映像的・物語的・メディア的な進歩を目指そうとした光景が「進歩を見失った近未来光景」たるブレードランナーを祖父に持っているという皮肉を持って、オレが思うビデオゲームの原風景として強く作用しているのを見取る。

 

 そして現世代のゲームにおいてそうした原風景を継いでいると思われるのが、「バイオショック」「デウス・エクス」のように見えている。この二つはFPSがベースながらRPG・アドベンチャーなどの要素を持つなどスタンスがよく似ており、何より両シリーズ誕生はどちらもゲーム史上屈指のクリエイターと評価される、ウォーレン・スペクター氏(※リンク先英語ウィキ)によって生み出されているものという共通点があるのだ。

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 すっげー長い前置きだったけど、ビデオゲームの見つめるブレードランナーの近未来視点の現在ということでの「デウスエクス」、もう今2012年という年の時点でとっくにSFが漠然と「未来」の設定にしていた年代に突入しているわけで、年を追うごとにブレードランナーの系譜の近未来の光景もポストモダンとか言って建築や待ち行く人たちの言語に欧州米国側の価値観として異形種のアジアなどを混ぜ込みまくっていくというものではなく、さすがに現在の世界情勢・地球環境から逆算して予測しうる近未来というものを凄まじいディテールで描いている。

  そこでのアジアと言えば中国が世界の前衛にいてアメリカは国家解体して州ごとに分散しているという世界で、ブレードランナーのタイレル社が支配的な風景というのを継いでか人体をサイボーグ化させる新技術オーグニテーションを主導する企業が支配的になると言う背景で、デトロイトと上海の大手がせめぎ合っている中で完全に富裕層と貧困層の差が莫大に離れた時代となっており、もうホントこの作品は美術も見もので富裕層や企業のインテリアは非常に前衛的いやいやポストモダン的洗練極まる部屋ばかりが出てくるのと比較して下層の街の小汚さと寒々しさが際立つ。

 近未来への陰鬱さというのが奇妙にディテールを増していることのハイライトとなるのが、このゲームの根幹である「人類が進歩する上でのオーバーテクノロジー」という、先のオーグニテーション技術、平たい話が大マジにサイボーグ技術を社会的に導入し広げるべきかそうすべきでないか?を巡って利権・尊厳などなどを巡って企業側・反対派・穏健派など様々なサイドが駆け引きしているという状況であり、しかも作中本当にオーグニテーションにて危険な事故が引き起こされる展開で急転していくという物語というのは正直原発事故後の日本ではタイムリーであったと思い、リアルタイムで現在のオーバーテクノロジーたる原子力を巡る論争や駆け引きを目にした上で本作を見ると、そういう意味でこれまたマジな話一つ間違えば危機にも及ぶオーバーテクノロジーを巡る時代状況のシミュレーションとしてよく出来ているゆえに、シャレにならないテーマを取り扱っており、最終的にそうした時代状況から割り出されるいくつかの結論が提示され、プレイヤーにどのサイドの結論の未来を選ぶのか?を試させるようになっている(ただここはよく出来ているとは言えないのだけど)。

 「デウスエクス」は決して近未来光景としても、ゲームシステムとしても、革新的に打ち破った部分は無い。だがしかしブレードランナーが提示した光景をこうしてある種のビデオゲームが進化の指針としてモデルとしていき、さらに年月を経た現在、その光景がうち破られ、さらに革新的な別の未来光景が提示されるのかと思いきや実は違い、それどころか以上に挙げたオーバーテクノロジーの命題が根幹となっているという今日的な課題を抱えた陰鬱な近未来というものを描く想像力のディテールが増していっているという現状であり、事実この作品の時代設定は2027年、もうわずか15年先という程度であるという未来なのだ。

 「ブレードランナーの未来世紀」という80年代映画評論本の締めは「これからどんな夢が、未来が見られるだろうか?」とあり、実際ビデオゲームに限ればかなり長い期間その映画の生み出した光景の影を背負ってきたと思うし、現在に至っても引っ張っている。が、それももう終わりに来ているのでは?というのがオレの気分であり、ここで猛烈に話が飛んでしまうのだがそうした80年代より形成された現代の基盤というのが各所に渡って崩壊してきているのが見当たり、「デウス・エクスの描く近未来世界」とはその末尾に当たるように感じるのだった。

 

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