「ゲーム性」は何か?という議論に一言たりとも耳を貸すな・それはビデオゲームの評論全体に付きまとう呪われた言葉

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 ビデオゲームの批評なり評論なりには、とある言葉が本当に長い間呪いのように付きまとっており、ところどころでその呪われた言葉に関しての議論が黒ミサのようにどこかで行われ、おまけにその呪われた言葉があまりにもシンプルな言葉で議論に参加しやすいゆえに人が集まりやすく、そして結局答えは出ないままに人々が散り散りに分かれたのちに呪われた言葉は伝染していき、またどこかで同じように議論されまた答えが出ないまま終わることを繰り返して今までに広がってきているである。

 その呪いのような言葉とは何か?それはそのままシンプルに「ゲーム性」というもの。「ゲームらしいゲーム」なんて言われ方もある。それを巡って多様なビデオゲームの議論の対象になる。非常にそれはシンプル。ビデオゲームが好きで長く遊んでいる人なら少しは考えたことがあるから参加しやすい。でも、ほとんどがまっとうな結論に辿りつけないくだらない議論で終わる。

 さて今回は長らく居座るそんな呪われた言葉を中心とした、これまでにこの呪いに関して真っ向勝負で挑んだ論文も引用しつつのビデオゲームの批評や評論の現実に関してのエントリ。今回エントリがやはり黒ミサで終わっているのか、呪いを打ち破る一刺しで終わっているのかは読まれる皆様に委ねられる。

▼ほとんどの「ゲーム性」という言葉が出るとき

 

 ここは全くソースが無くて噂話の程度でしかなく、説得力に欠けてしまうことを前置きした上の事だが、現実に製作に関わっている方々のはこの「ゲーム性」という言葉はかなりのこと疎まれているようなのを見かける。考えてみればそれも当然で、明確に定義されておらず、個々人の解釈によって意味が違う上に、スタッフが共有できる確かなコンセンサスも無いくせに下手に何らかのテーゼが存在しているように振舞うこの言葉は現場にとって迷惑でしかないだろう。

 このくだらない「ゲーム性」という言葉は一体どういうふうに使われるのだろうか?

 おおよそのところは現行の映像の進歩やムービー、シナリオ偏重のゲームに対してが多く、もっと最悪なのは発言してる人が単に自分が嫌いなだけのジャンルに対してなにかしら定義が存在するであろう言葉として叩くのに使われているのである(「ソーシャルゲームはゲーム性が無い!」とかね。)。そして、その時に使われる「ゲーム性」とやらは、簡潔に言ってどうやらゲームのルールのデザインがなっていない、バランスに関しても駆け引きが、戦略が前面に出てない!ということで怒っているようなのだ。

 確かなルールの上で成り立つ、ゲームシステムとの駆け引きでなく、美麗なグラフィックやムービーを売りにするな。シナリオだけの紙芝居にするな。ガチャのような射幸性を煽る確率の構造を使って儲けるだけのものにするな。ということから「ゲーム性」という言葉が出て来ているようなのである。

 最近でさえもこんなウェブ線上の黒ミサが行われており、案の定呪いを振りまくことだけに成功している。

まこなこ ―ゲームとゲーム性と、ゲームらしいゲームとは

今日は、ゲームとゲーム性、そしてゲームらしいゲームとは何なのか、という点について取り上げたいと思う。ここで言うゲームとは、コンピュータゲーム、ビデオゲームのことを指す。

さて、ゲームを構成する要素を考えてみよう。いったい、どういった要素があるだろうか」

「魅力的なグラフィックがありますね。それにストーリーなども重要です。」

「音楽もゲームを構成する要素ですね。他にも操作性などもあります。」

「そういったものがゲームを構成する要素だろう。しかし、それよりも大事なもの、この大事なものがないとゲームとして成り立たないものがある。それがゲーム性だ。」」


(もうこの時点で脱力しながら中略)


「ゲーム性とはルールのようなもの。ルールではあるが、そのルールには楽しむために必要な、という条件がある。

わかりやすく説明するために、ジャンケンを例にしてみよう。

ジャンケンは単純な遊びだが、これだけでも楽しめる遊びだ。このルールは三すくみを用いたものであるが、いろいろなゲームにも用いられていることからも、その面白味というものは理解いただけるだろう。

さて、このジャンケンに次のようなルールを加えてみよう。

100メートルを走った後にジャンケンをして勝敗を決める、という。

ここまで見聞きしないルールではなくても、例えば「あっち向いてホイ」を考えてもらえればいい。ジャンケンに追加でルールをつけて遊びを増したものと判断できる。

このように、ゲーム性は、単なるルールではなく、楽しみを与える、楽しみを増加させるものであるという前提のルールと言える。

このゲーム性が十分でないと、ゲームとしてつまらないもの、つまりはダメゲーとなるわけだ」

(手で顔を覆いながら中略)

「具体例としてアドベンチャーゲームを挙げてみよう。

よくWindows用のエッチなゲームとしてアドベンチャーゲームがあるが、ああいったものはゲームじゃないんだよね。

あれはゲームではなく、単なる電子ブックにしか過ぎない。

絵が描いてあり、声が出て、単に文を読み進めるだけ。選択肢はあるものの、その意味するところは乏しい。

昔、本でも選択肢を設け、選んだ選択肢の該当ページに進んで本を読み進めるというものがあることからも、ゲームよりかは本の延長線上のものでしかないことをお分かりいただけるだろう。

ゲーム機で発売され、他のゲームソフトと同じ媒体で展開をしているものの、単なる電子ブック。ゲームではない。」

 これがなんと2013年のしかもここ最近の時点のものだ。ここに現代のビデオゲームにて議論される「ゲーム性」とやらのおそらく何万回とループしただろうポイントのほとんどが集約されている。

 ノベルゲームに対してこの見解は作り手に対しても本に対しても双方に失礼極まりないものなのだが、先にも言ったように「ゲーム性」の錦の旗としてあげられるのが結局のところ明確なゲームのルールがあるかどうか。マスターであるゲームシステムとの駆け引きがあるかどうか。ということが多数なのだが、なぜかそうは言わずに「ゲーム性」と言う。だがしかし、「ビデオゲーム」においてはその進歩の中で、もはやとっくのとうにルールとゲームシステムとの駆け引きというものだけで括れなくなっている、なんて当然の話じゃなかったのか?

 確かに「ビデオゲーム」の「ゲーム性」でもっとも消化しやすいものはこうしたルールと駆け引き論に落ち着くことであり、その根拠として黒ミサの供物に「コスティキャンのゲーム論」であるとか、フランスの社会学者ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」 などが捧げられるのだ。

 それは「ゲーム」を定義していくうえで実践的なデザインの面でも、人間の嗜好や性質を見通した学術的な側面でも興味深いのだが、最重要なのはこれらは結局のところ「ビデオゲーム」の一部しか捉えていない。

 というのも、コスティキャンはビデオゲームの仕事もしているのだが、基本的にはテーブルトークRPGのデザイナーの論理であり、先のゲーム論発表にしてもPSをはじめとしたマルチメディア時代とも交錯するさらなる定義の変化の始まる1994年の段階でのものであるし(※)、カイヨワはあくまで学者として人類の特性を考えていく上で「遊び」というものを中心に文化論・文明論に拡大していくのが本流でなのであり、ゲームのルールやデザインといったものから現在のビデオゲームに至るまでを実践的に語るのとは全く別なので役に立たない。そもそも「遊びと人間」出版時は1958年、人類は未だビデオゲームから遠い時期だし一部分でしか比較しようがない。何らかの権威付けが欲しい程度の引用だろう。極論だが東浩紀氏の「動物化するポストモダン」とか「ゲーム的リアリズムの誕生」を持ってきてギャルゲーやオタクうんぬんを根拠があるように全力で権威づけて語られるのに近い。そんなの我慢できるか!フラクタル!

 つまり、鬼ごっこからジャンケン、将棋やチェス、テーブルトークRPGなどのおおよその対人を介して提示されるルールによって駆け引きして遊ぶ、俗に言う「トラディショナルゲーム」「アナログゲーム」と、端末を介してソフトを遊ぶ「ビデオゲーム」はまずは別物だということから始めた方が良く、まずそこんところを混同した結果どうしようもない「ゲーム性とは結局ルールと駆け引きとか戦略。ノベルゲーは電子ブックでアドベンチャーはゲームじゃない」という恐るべきビデオゲームのゲーム性とやらが語られるのだ。さっきのなんてわざわざ「ここで言うゲームとは、コンピュータゲーム、ビデオゲームのことを指す。」と前置きしといてこれだからな!

 

 では対人でルールの上で駆け引きして遊ぶことで成立するトラディショナルゲーム・アナログゲームと、コンピューターとソフトによって成立する「ビデオゲーム」を混同するべきでないのはなぜなのか?

(※ 氏のゲーム論は数多く引用されるわりにあまり補足されないのだが、グレッグ・コスティキャンのその他のコラムはこちらのサイトで読むことが出来、俗に「ゲーム性」と反する筆頭として語られやすいストーリーという要素に関して、2007年にはゲームのストーリーテリングに関してのコラムも書いている(英語です)。書き出しから「1973年以前にゲームは物語を語る媒体であるといったらならば狂ったやつだと思われただろう。」と書き、「チェスにもブリッジにも物語は無かった」という風に展開していき、様々なジャンルのストーリーテリングを解説していくというルールとデザインを作るTRPGデザイナーならではのゲームのストーリーテリング観を見取ることが出来る。)

▼PCとビデオゲームの独自の発展は、とっくのとっくのとうに単なるルールと駆け引きのデザインだけでは語り切れないから

 ビデオゲームは当初チェスをコンピューターと対戦して遊ぶような、既存のルールが既に出来あがっているボードゲームやテニスなどや、TRPGにてゲームマスターをやってくる人をコンピュータに任せるような、人間の代わりに遊べるもの(かなり乱暴で単純に書いてる。ほんとはもっと細かい。)だったわけだけど、そのコンピュータの進歩の中でインターフェースの発達からグラフィックやサウンドの発達、ストーリーテリング、世界観などが洗練されていくことで発展していった。

 しかしそのビデオゲームの独自的な発展は、ある時期よりゲームの大前提的な「ルールと、それを駆け引きする戦略の面白さ」というものから大きく離れた領域に向かうことになる。

 

 それをストーリーやヴィジュアルというものを全面にしたアドベンチャーの登場からと言うべきなのか、はたまた日本式の「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」のような演出の発達したRPGの登場からと言うべきなのか、それとも電子機器とそれを使う人間みたいな根源まで遡る必要があるのか、少なくとも、かつて家庭用ビデオゲーム中心であったオレ個人の経験では、それは90年代のマルチメディア時代と足並みを揃えたゲーム機の時代あたりからグラフィックの進歩によるムービーの表現による映画的な没入感を生む表現が可能になるなどを代表に、作品が成立するに置いて「ゲームとはルールと駆け引きを戦略立てて行う」という必要条件が崩れ始めたゲームが多数出回ってきたと思う。


 
そして、「ゲーム性」という呪われた言葉はこのあたりから大きくなるのである。

ビデオゲームの議論における「ゲーム性」という言葉をめぐって-雑誌『ゲーム批評』を中心にその使われ方の状況を探る井上明人

第6節 いかなる文脈で成立している主張か

 

さて、それでは、これらのシステムとしての「ゲーム」ないし「遊び」といったような概念はどのような概念との差異の中で強調される形で使用されるのだろうか。

 以下、「ゲーム性」と対立、ないし差異が前提とされているさまざまなものとの関係性で「ゲーム性」を強調した文章を引用してみよう。

「美しいグラフィックと残念なゲーム性(小見出し)」(編集部 5号 1995年9月 19頁 『輝水晶伝説アスタル』)

「物語よりゲーム性を追及したRPGの良作(小見出し)」(広尾遊戯 7号 1996年2月  30頁 『風来のシレン』)

「ハイスペックを誇る新世代機の登場は、これまで表現力や容量の限界のために眠らされていた、多くの箱を開けた。しかし、その一方で、持て余すほどの新技術に翻弄され、ゲーム性を見失った作品をも、同時に送り出したのだ。」(春生文 1996年6月 9号 25頁)

「「見た目だけ」、「ヴィジュアルばかりを求めてゲーム性がおろそかにされている32ビット機の登場と同時に、こうした評価を受けるゲームが格段に増えた。豊かになった表現力を武器に、広く、浅く、多く、というスタイルを取る32ビット機は、ヒット作を多く生み出すが、その陰には多数のクソゲーの山が築かれているのである。あまりに見た目の演出に走りすぎてゲーム性に対する配慮を忘れ、また趣味性やマニアを重視したゲーム作りを続ければ、ゲームをする層そのものを消し去ってしまう状況を招きかねない危険性をはらんでいる。」(ゲーム批評編集部 1997年上半期11-13号総集編 38頁)

「ゲーム機の進化とともに表現スタイルが進化した結果、そこに作家性とゲーム性のジレンマが生まれたような気がしますね。」(渡辺浩弐『大人のためのテレビゲーム学概論』1999年 13頁 対談)

「異様に長い召喚獣によるムービーなど、ゲーム性うんぬんよりも、物語、そして映像を見せるという点に全力を投球したVIIは、結果としてプレイヤーの層がごっそり変わったのではないかと思う。」(橋本和明 35号 20001100 45頁 「FFVII、FFVIII再評価総括」)

(※筆者注 分かりやすくするため時系列順に再編集し、また詳しく書かれたものを選んだ) 

 以上、一度に多く引用したが、とにかく、この種類の形で差異を強調するようなタイプの文章には例を事欠かない。

 基本的に、最も多くの場合差異を強調されるのは「グラフィック」である。「ヴィジュアルばかりを求めてゲーム性がおろそかにされている32ビット機の登場と同時に、こうした評価を受けるゲームが格段に増えた。」といった形でグラフィック(ヴィジュアル)を重視するぐらいならば「ゲーム性」を重視しろ、というような論調は第一章でも書いたようにまさに掃いて捨てるほど存在する。

 グラフィックの次にゲーム性と対立したり差異を強調されたりするものとしては、ストーリー、シミュレータ、ギャル萌え、作家性、コンセプトなどといったものである。

 だが、「ゲーム性」と一番差異を強調されるのは何といっても「グラフィック」である。これは90年代後半に特に顕著な形で言われるようになったものだと考えていい。引用した文章の中に「ハイスペックを誇る新世代機の登場」「32ビット機の登場」という文字が躍っていることからもわかるように、90年代後半には、90年代前半に市場のシェアをほとんど占めていた任天堂のスーパーファミコンというハード(ゲーム機)に変わってソニーのプレイステーション、セガのセガ・サターン、任天堂のニンテンドウ64などといった一段と高性能になったゲーム機がシェアを争い、「次世代機戦争」などというような言葉も生まれた。

 ゲーミフィケーション―<ゲーム>がビジネスを変える」の著者、井上明人氏の卒論であり、いかにこの不確定な言葉が根付いてしまったのかやこの言葉を巡ってのゲームの捉え方などなど、「ゲーム性」という概念を徹底して追求した論文だ。

 

 この論文は「ゲーム性」というものの定義を決めたりすることでなく(※このエントリもそうです)、この言葉がいかに使用されてきたかの調査としてかつて存在した雑誌「ゲーム批評」が中心に据え、「数あるゲーム雑誌の中でも『ゲーム批評』が最もゲームの抱える「問題」「意識的・積極的に論じようとしている雑誌」ということで主な資料とされているのだが、いかにその時点より意味にバラつきが出ているのかをデータに取っていたりもしている。大変長いけれど、概ねビデオゲームの「ゲーム性」というものを厳密に掘り下げた場合どういうふうに収まるのかをまとめ切っており、このエントリも氏の論文と多くの部分が重なっている。

 

 しかし、これを「ゲーム批評」を中心としたメジャーシーンでのゲームに関しての言説の一つの資料として眺めるに、オレの乱暴で簡単な感想はと言うと結局のところ「ゲーム性」という言葉の多くがこうして発せられるのはビデオゲームが孕んでいる各種の可能性(または、すでに進歩し質的変化していった変化したビデオゲームの現実)に対してまったく対処できないのをトラディショナルゲーム的なルールや駆け引きと言った言葉を盾にした保守的な暴論に過ぎないということだ。

 それは特にビデオゲームが90年代のハードの進歩やマルチメディア時代を通過することによる全体的な進歩に関して、いかに批評のサイド(※とりあえず、メジャーなメディア発では)は進歩していないのかの証左ともとれる。

 

▼ビデオゲームの「ゲーム性」を見るフレームになりえる意見

 「ゲーム性」議論でコスティキャンやクロフォードの論が引用されるのだがもともとがアナログゲームTRPGデザイナー出身である彼らのロジックでは決定的にビデオゲームの持っている本質、というか実践的なデザインのロジックと言うべきか、それを語りきることはできない。

 彼らの代わりに本当に引用すべきなのは、コスティキャン・クロフォードを「TRPG・ボードゲームを含めたトラディショナルゲームとビデオゲームは、名前に同じ「ゲーム」が入っているだけで、出自の異なる全く別種の流れだという事に、彼らは気が付いていない気がします。早期に流れは合流して不可分状態になりましたが、誕生の段階では全く無関係の別物だったのです。」と言い切った、現実のゲーム製作に関わっている人間でありながら、ビデオゲームというものの性質をアカデミックに解析したざるの会のこちらの論じゃないだろうか?

●ゲームデザイン入門<第六版>

 現在、巷間に多くの「ゲームデザイナー入門」を称する書籍が溢れている。また、多くの雑誌上では「ゲーム評論家」を自称するライターが書いた「ゲーム評(もどき)」が横行している。

 



 しかし、数少ない例外を除き、その内容の殆どが感想もしくは製作上の細かいテクニックを散文的に書付けただけ(RPG入門の類に多い)の現象論的な把握に過ぎず、体系化された解釈は皆無に近い。「論」とは呼べない、読むに耐えない駄文に過ぎない。

 

 しかし一方、ビデオゲームの製作現場の状況も、残念ながら大して変わらないのが実状である。偶然に生み出された多くの経験則が、個人の意識レベルで単なるノウハウとして無秩序に浮遊している状態であり、意味付けされ、敷衍され、体系化され、普遍化されて一般則までに昇華されることはない。また、その知識の共有化もままならない。製作者側もある意味では手探りで作らざるを得ないのである。

 つまり、誰も「道具」を持っていないのである。
 この現状は、「ビデオゲーム」とは何か、「面白い」とは何か、という本質的な考察(把握)が抜けたまま、「ビデオゲーム」という現象(商品)だけが猛烈なスピードで突っ走ってしまったことによる。
 よって、本書の目的であり特長である点は、上記の現状をふまえ、「『ビデオゲーム』とは何か?」「『面白い』とは何か?」を出発点とし、「ビデオゲーム」を構造的に把握し、より高い視点での体系的な理解と、さらには「道具」(方法論)の確立をも目指していることである。

 これだけでも、今までの類書とは一線を画していると自負するものである。

 

 この序文だけでビデオゲーム界隈の評論サイドの現実を簡潔に言い表していると言ってよく、さらに驚くのはこれが書かれたのが初版の時点で1992年というとんでもなく早い時期なのだが、しかし逆を取れば今もさして変わってないという哀しい事態とも取れる。(なにせ1996年の第六版のあとがきに「ビデオゲームの説明に十年一日の如くカイヨワの「遊びの四分類」を持ち出してくる類の本には、引っ掛からないように要注意である。持ち出した時点でビデオゲームを語る者として失格なのだから」と書いているあたりホントに昔から変わらないのだなあ・・・と)

 ビデオゲームの体系について非常に優れた形で語られているが、やはり本論が発表された1992-1996年という時期ゆえにそれより大きく価値変動が起きる以前ゆえにリアルさに関しての記述などに時代を感じさせながらも、根本的な理論の記述は高い説得力がある。ビデオゲームの評価に関して概ねオーソドックスなところを見た場合、これが最適なフレームになると思う。

 

5件のコメント

  1. その記事で「リセットさんの説教を20回くらい聞いてから出直して来い」とコメントした者です。
    このブロゲ内で「偉大なゲームデザイナーたちが持つ偉大な映画監督たちと同じ能力」と「サンリオタイムネット」にコメントして名前を書けと怒られた者でもあります。
    たまたま同じ記事を見ていたことに驚いています。その記事をリンク付きで批判したことも。
    ゲーム性という言葉が持つ危険性はずいぶん前から警告されていたんですね。
    ゲーム性という言葉を盾に知ったふうな口で暴論を押し付けてくる連中には本当にうんざりです。
    「おいでよどうぶつの森」以前のリセットさんの説教を100回くらい聞かせてやりたい。
    逆に言えば最近はリセットさんがお払い箱になってしまうくらい、ゲームに対する考え方が変わってきてるんでしょう。
    だからこそゲーム性という言葉にしがみついてる人は余計に必死になってしまう。
    こだわりを捨てられず、新しいものを受け入れられず、ゲームを楽しめなくなっていく。
    それでもゲームを捨てられない。そんな感じの人がちらほら目に付くような気がします。

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  2. >dさん
    >ゲーム性という言葉を盾に知ったふうな口で暴論を押し付けてくる連中には本当にうんざりです。
    「おいでよどうぶつの森」以前のリセットさんの説教を100回くらい聞かせてやりたい。
    おおおなんかかなりクールに物事を見ているタイプだと思いましたが
    めちゃめちゃ熱いとこあるじゃないですか!(笑)
    「ゲーム性=ルールと駆け引きうんぬん」と規定!からの~「ゆえにどうぶつの森はゲームじゃない」
    みたいな落第の解釈が出回ってるのを見るとほんとひっでえなと思うと同時に、
    今の今までに本当にトラディショナル・ゲームまでの「ゲーム性」の定義は出来ても
    ビデオゲームの「ゲーム性」定義(本エントリはそれから避けていますが)は
    ほとんどまともに出来ていないんですよね。

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  3. 「どうぶつの森はゲームじゃない」って意見も言わんとするところはわかるんです。
    どうぶつの森は本来MMORPGとして製作される予定だったのに、色々な事情から頓挫してしまい
    戦闘も経験値もラスボスもいないRPGの面白さを提示せざるを得なくなりました。
    結果的に本来のRPGの役割であるロールプレイをこれ以上なく体現していたゲームだったと思います。
    どうぶつの森がシリーズを重ねてコミュニケーションツールとしての役割が強くなっていくと同時に
    リセットさんの役割もなくなっていきました。
    リセットさんの言う「現実にリセットボタンなんてない」という認識は、もはや当然の認識になりました。
    それは本当に喜ばしい事と言えるでしょうか?
    どうぶつの森が目指していたMMORPGの大半は本来のRPGとしての役割を果たせていないように思えます。
    ネットを介して他のプレイヤーとのコミュニケーションを重視すると「架空の世界を楽しむ」という本来のRPGの役割を薄れさせてしまう。
    どうしても現実世界のプレイヤーの姿が透けて見えてしまうんです。
    確かにそれはRPGの定義からは外れかかっているように思えます。
    そういったものを非難するときに便利なのが「ゲーム性をないがしろにしている」という言葉です。
    確かにこれ以上妥当な言葉はないと思います。
    しかし最終的にそれが「○○はゲームじゃない」という極論に行き着いてしまうのが問題なんですね。
    たとえコミュニケーションツールであろうとゲームである以上、それそのものを否定する事はできない。
    でもなんというか、言わんとするところはわかるんです。

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  4. ゲーム性うんぬんで暴論に行き着く記事多いですよね。ゲームは沢山遊ぶ人ほど駆け引き性(ゲーム性と呼ばれるもの)を求めるのは何度も繰り返し遊んでも楽しめるからでしょうか。
    ビデオゲームがとっくに「ゲーム」だけでは収まりきらないのはその通りです。大体ゲーム性とやらを捨てるたびに新規ユーザーを獲得してきたではないですか。トラディショナルゲームから離れることによって僕は魅かれましたよ。駆け引きの楽しさは否定しませんが、それだけでは無い所こそがビデオゲームがの良さですわ。
    ビデオゲームの出自自体がトラディショナルゲームとは別というのを読んで思い出したことがあります。
    スクウェアが3DCGに注力しFFを映画化したことです。あれは坂口氏の道楽(個人的趣味および野望)だったのかと思いましたが、今考えれば、ビデオゲームのパイ(領地)を広げるための戦略だったのかもと思いました。ビデオゲームの開発費高騰に対して「ゲーム」ユーザーだけではまかない切れなくなる、新たな領土を広げなければビデオゲームは将来死んでしまう、という危機感から仕掛けた映画業界に対する戦争だったのではないでしょうか。
    PS3で久夛良木氏が「これはゲーム機ではない」と言って、高額な価格設定にしたのも、家電やらパソコンへの宣戦布告だったはずです。
    結局FF映画は負け、PS3も家電にはなれず負けてPS4ではゲーム機押しになってしまいましたが。XboxOneはTVに喧嘩を売り、任天堂は健康器具に喧嘩を売ることにしました。いまでも戦争は続いているのでしょう。
    つまりトラディショナルゲームと違いビデオゲームは経済性が絶対に存在してしまうということですね。大きくなり続けなければ死んでしまう(レトロゲームもどきやリメイクばかりになってしまう)、それを知る業界トップたちは他業界や他文化のパイを奪うため戦争を仕掛けずにはいられない運命なんでしょう。願わくばビデオゲームを愛する者として勝利を。

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  5. >sabooさん
    この記事はいま読み返すと書き足りてない部分があって、
    それはやっぱゲーム性と言われるおおよその部分に関してのところです。
    今それをいろいろ調べてまとめると、
    スポーツのようなルールとその上で練られる戦略の深さにともなう競技性ってことや、
    またゲームのシステムやルールを為しているゲームメカニクスのことへの
    言及が抜けたままでした。
    僕はおおよその意味で使われる「ゲーム性」「ゲームらしいゲーム」という曖昧さのある言葉を
    なるべくメカニクスや競技性という言い方をしています。
    (この言い方で語れている人はなんだかんだでかなり確かなゲームレビュー出来てる方が
    多いように思っています)

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