ドラクエで死んだ仲間をザオリクで生き返らせることができるのに、物語中に死んだ仲間を生き返らせられないのは納得いかない

Caqvduoz

 ドラクエなどで戦闘中に死んだ人間が出てきた時に復活の魔法なりアイテムなりを使えば生き返らせることができるのに、ストーリーの進行で仲間が死んでしまった場合には生き返らせることが出来ないというのはおかしい。だけどそんなことを言っても、大抵のプレイヤーは皮膚感覚的にそれが奇妙なことであるとは思わない。

 物語やキャラクター、表現や演出、世界観の優れたビデオゲームは多数ある。しかし、ビデオゲームにおいて物語や表現が優れていると言ったならば「ではゲームの部分は面白かったのか?」という指摘が巻き起こることも少なくない。

 
 ビデオゲームが提供する物語と表現という部分と、実際にプレイヤーが遊ぶ部分というのを分けて認識されていることが「ストーリーやキャラクターは良かったがゲーム部分が面白くなかった」というような感想を目にすることが多いことから分かる。たいていのプレイヤーは「ストーリーを読む」ということと「ゲームを操作する、解く」ということの二つが分裂していることを理屈で言葉にせずとも皮膚感覚で知っているのだ。

 ビデオゲームはその技術進歩の過程で、グラフィックの進歩などを中心にした世界観の表現の発達など物語と表現の比重が増したわけで、その反動としてゲーム性議論みたいなものが起こり易かったと思われるのだが、その水と油のように反発しあいながらも寄りそう二つの関係の今はどうなっているのだろうか?というわけで、「ストーリー」「ゲームプレイ」の関係についての簡単な考察。

■まずわかりやすそうなJ・RPGをネタに分離を考える
いかにストーリーテリングの比重が高まったのだろうか?

 まず「ストーリー」と「ゲームプレイ」の分離というのは、人間の視聴・読解という「入力」の部分と、自らの身体で動かす・操作するといった「出力」の部分が全く別物であることからどうあがいても起きるものと言え、現在のビデオゲームの特異さってのはまったく異なるこの二つがハイブリッドになっていることだろう。ゲームプレイヤーは入力と出力というものが平行線をたどっているものを当然のように受け取りそれぞれを理解しているのだ。

 視聴・読解という入力のメディアである漫画や映画や小説などとゲームが大きく異なっていることの一つに、まずゲームは当然操作するという出力が前提である。それゆえに今でもはっきりとしたアクション・RPG・シューティングなどジャンルによる区別が深いことがある。

 

 これははっきりとしたアクションやホラーを見せたいジャンル映画や小説というのはあるのであまりはっきりとは断定しないが、しかし漫画や映画や小説には既に歴史上そうしたジャンルでは括られない作品作りが成立し、文化のレベルを上げているものが多数あるのに対し、ビデオゲームでは次の段階に進むためにまだまだジャンル間の融解というのは行われている最中だ。

 なにかおかしな書き方に読めるかもしれないけど、漫画や映画のように受け手が観賞するだけでなく、ビデオゲームは受け手がアクションやシューティングなどジャンルによって提示されるルールと駆け引きを行っていくことがやはり先にあり、アドベンチャーを別にすれば基本的にはジャンルに沿ったゲームプレイを構築していくのが先であるということで、ストーリーと言うものは後から作品をまとめ上げるための包装紙であり、主人公がなぜ闘うのか?といった5W1Hの辻褄合わせであったり、物語の続きを見たくなるようにゲームを進ませるようにさせる仕掛けだからだ。

 宮本茂や遠藤雅伸などの昔ながらの日本のゲームクリエイターのインタビューを読むとまず出力としてのゲームプレイを積み立てるのが先で、ストーリーや世界観についての取り扱いは基本的にそんな感じだ。

 

 
社長が訊く Wii プロジェクト – Vol.5 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』

だから、「『ゼルダ』のストーリーがよかったです!」という人はいてもいいし、うれしいんですけど、そういう人が『ゼルダ』の作り手として入ると、ちょっと、かみ合わないかもしれないです。

もうひとつ、『ゼルダ』において大事なことは、「ものがきれいに詰まっていること」。
これは、説明がちょっと難しいんですけど、いろんなアイデアがうまく絡み合っている状態で、地上とか景色に対して、個々のネタが、バランスよくそろえられていること。

そういうところの「疎」と「密」の部分がうまくレイアウトされているということですね。
そういうところが『ゼルダ』では重要です。


 まずはゲームプレイやゲームシステムの構築が先で、ストーリーや世界観の構築というのはそのまとめ上げとして使う。だからより広がりを持ったゲームプレイにするために使うというくらいなので、ストーリーテリングそのもの比重は決して高くは無い。なので彼らのゲームで大きなストーリーとゲームプレイの乖離というのは少ないし、現在でも明確なゲームシステムの土台にストーリーを繋げるというのはそこまで乖離しないものだ。

(※ ここからネットによくあるこういう個人経験をさも普遍的な歴史のように書くセクションに突入するので話7分目くらいで読んでください。)

 しかし、ゲームの進歩の中でグラフィック演出の進歩や世界観描写の比重が高くなるにつれてストーリーというものが大きな位置を占めるようになってくる。普遍的な歴史としてどこからそれが起こったか?はちょっと情報が足りないので書けないので、自分の経験を振り返るとそれはやはりRPGというジャンルが特に象徴的だったと思う。

 人間の「入力」と「出力」の関係の全体の話になってしまうと難易度が上昇し過ぎて書き切れないので、とりあえずアクションやシミュレーションなど各ジャンルごとにストーリーとゲームプレイの関係があると思われ、ここから書かれる話はあくまでいち側面にしかならないのだが、まずはその問題が分かりやすいと思われる日本のRPGというのを代表として考えるに、ある時点よりもっともゲームプレイという出力面とストーリーという入力面が強く分離していったと思う。

 もともと「ウィザードリィ」「ウルティマ」を代表とするRPGを元に、日本で「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」が生まれたのだが、両作品は原点と比べて、シリーズを重ねるにつれ、RPGのルールや駆け引きの進歩の他にストーリーテリングへの比重を高めていくことになる。

 俗にJRPGと呼ばれる日本のRPGが特異な進歩を生んだ理由を簡潔に言えば、ゲームプレイに「次にここに進めばいい」という親切な導線を敷いてあることや、プレイヤーの腕前を強くは問わない比較的容易にクリアしやすい難易度でのゲームの進めやすさがそのままストーリーの流れに乗ることに繋がる快感を生んできたことが大きいと思われる。ライトなプレイヤーには物語に乗る快楽を提供し、ルールと駆け引きを重んじるコアにやり込みの充実や隠しボスの配置でバランスを取る。

 
 

 しかし、PS時代あたりでの「ファイナルファンタジー」の3Dでのグラフィック表現や重要なシーンでのムービー表現などによる、ストーリー表現の過剰化が起こるにつれ、俗に「ゲーム性」の有無が取沙汰されるのだが、結局あれはRPGというジャンルのルールや駆け引きの深化うんぬんといった次元の「ゲーム性」なんかが問題ではなく、ストーリーテリング(ないし、ビデオゲームにおける映像など全表現)とゲームプレイの乖離が問題だったのではないだろうか。

 だってめちゃくちゃ文句言われてるFF8って全ストーリーやキャラクター度外視してジャンクションといったルールに絞って目を向ければ面白いことしてたわけで、実際いまもその面で評価している意見も見かける。しかしどうみてもそのルールから逆算して生みだされたストーリーや世界観ではない上にそのストーリーもデタラメ。基本ゴージャスだが各要素があさっての方向を向いて分裂状態というのはPS以降のFFに顕著な特徴。

I

                          さあどんな物語なら納得だ?

 まあそう言ってもグラフィック進歩以降もゲームプレイを合わせて行く形にはなかなかならず、従来のRPGのルール設定の構造は変えられなかったのでドラクエもFFも職業チェンジといったルールやり切った6過ぎたあたりから、新味を出そうとするために完成されているルールに無理やり変更・追加を行うため、結果いびつになる。FF8が結局そうだし、ドラクエも大きなグラフィック進歩を取らず、シナリオの重層化とルールの深化を優先したドラクエ7もかなり奇怪なゲームデザインだ。

 JRPGはJRPGと呼ばれる前から凋落の傾向はあったんだと思うが、このエントリのテーマに限ればそれはハードの進歩によるゲーム表現の多様化によるストーリーテリングの進歩と別に、RPGのルールまでは深化していく映像と物語に没入させるような方法をなかなか取れず、旧来のルールに無理に何とかシステムみたいな変更・追加ばっかりで両者の分離がひどくなっていったせいではないか。「なぜこの世界観とストーリーにこのゲームシステム?」とすごく根拠に欠陥のあるRPGが少なくない。

 アクションゲームなど「出力」がダイレクトに映像や表現と関われるジャンルが順当に進歩していたのと対照的に、特に日本のRPGは操作に当たる部分を記号化して表現しているために(難しく言ってるけど、戦闘の行為を「たたかう まほう にげる」のコマンドで表現するみたいな話。)ムービーからボイスなどなど視聴覚で受け取る「入力」の情報過剰化に対して、ゲームを操作する「出力」の部分が「マスエフェクト」みたいにして入力面と合わせることは出来ず、記号的デザインの構造を外せないために「敵から盗んだ魔法を装備する」みたいなソシュールもかくやという記号遊びに突入しがちであり、PS2あたりからRPGの革新性が弱くなったのもその辺理由ではないか。(現在のJRPGってのはこうした構造の問題を放置してても許されてるジャンルにしか見えない。コンパイルハートの「ガラパゴスRPG」とかって早く死ねよと思って普通。)

 そう考えるとPS以降のFFドラクエで良かったのは結局「ファイナルファンタジーⅩ」「ドラゴンクエストⅧ」。前者はシリーズ中もっとも現代AAAタイトルがやってる映画の流れとゲームプレイをシームレスにする体験が実現出来ており、後者はレベルファイブのドラクエ世界の丁寧な3D化に舵を切ったことに加え主人公4人のドラマを追う形に特化したストーリー&ゲームデザインの隣接により、袋小路に来ていたシナリオ重層化とルール変更・追加のくびきから離れられたから。(MMOになったものは遊んでないので抜かしてますが、コンシューマーでのMMOの登場はJRPGの「出力」にあたるルール変更のパラダイム変化でめちゃめちゃ大きいんですがもう書き切れないので今度に・・・「ゼノブレイド」凄かったですよね…)

■(色々話を飛ばして)現在のAAAでのストーリーテリングの比重の増加と
それにともなうゲームプレイの分離について

 JRPGってのが(おそらくは・・・あるいは・・・)早い段階でルールと駆け引きによるジャンルの括りの強いビデオゲームにてストーリーテリングや世界観に乗っていくゲームプレイを実現していたのではないかと見え、いまだ「クロノトリガー」が海外サイトのベスト企画で上位をキープするのもそのあたりが理由ではないかなと思いつつ、現代ではアクション・FPSなどのAAAタイトルでもそのストーリーテリングや世界観表現への比重は増している。

 
 しかしというか、比重を傾ければ傾けるほど実際のゲームプレイとの乖離は免れない。最近もこのような意見を見かける。

『Grand Theft Auto V』プレビュー – ストーリー性と自由度の両立

 主人公が3人という構造も、Rockstarのストーリーテリングを大きく進化させるポテンシャルを秘めている。『GTA V』は今のところ『ザ・ソプラノズ』を髣髴とさせるが、それは中年の危機に陥ったリッチで惨めなギャングが主役だからというだけではない。

 『ザ・ソプラノズ』では、犯罪にまみれた人生と家族への愛情、ギャング人生からの脱却への願望と彼らを犯罪へと走らせる病んだ衝動の間に横たわる溝を描いている。『GTA』も過去にNico Bellicで同様のテーマーに挑んでいるが、それが成功したと見る者は多くなかった。

 ガソリン・スタンドを破壊して喜んだりするプレーヤーが操るキャラクターと、カットシーンで見れるNicoとを同一人物として見なすことが難しかったのである。もし私がイザコザにウンザリしている元軍人で、より良い人生を求めてアメリカに渡って来たのなら、何故チンケなギャングのお使いをしているのか?根っこは良い人間だというなら、何故これほど多くの人間を殺しているのか?

 Nicoを悲劇的な人物として見ることで、私はNicoに共感しようと試みた。暴力しか知らずに生きてきた男が人間性を取り戻そうとアメリカにやってくるものの、どこに行こうが、その人間の本質は変わらないのである。彼が犯罪の道に引き戻されるのは、彼がそれしか知らない男だからなのだ。

 

 最新作「GTAⅤ」に関してのコラムだが、確かに「GTAⅣ」というのはセルビアからアメリカへと渡ってきたニコ・べリックが現代のアメリカンドリームとは何か?を追う旅路というのをサブプライムローン・オバマ大統領誕生の2008年にやったというシンクロニティ込みで、彼を通したストーリーと世界観は情緒的なストレンジャーの人生を追う形だった。がしかし自由に遊んでみたらガソリンスタンドボーン!車にロケットランチャードーン!警察激闘72時間ゴ―ン!

 ただそれはむしろニコの情緒的な視座に嵌まるようなリアルな都市描写やオープンワールドのルール変更のおかげで自由さに半端に制限が出てしまったことで評価はロスしていると自分は考えるが、やはり向こうはかなりストーリーとゲームプレイの分離に関してシリアスに対処しているのがインタビューから実際の作品などから見える。

 

 現代のAAAタイトルではストーリー表現とゲームプレイというのをいかに密接にした体験にするのかが非常に大きなテーマとなっているのだと思うし、さらに国家や人種、宗教からジェンダーといったレベルのテーマも内包されストーリー表現の比重はさらに増しているのだが、そこに市場の関係も混ざって無理にシューター化してるようにしか見えないデザインによってテーマがぶれたりとまだ「トゥームレイダー」の話引っ張ってて申し訳ないが、より主人公のパーソナルに沿った細かいスト―リー設定を行うならばゲームプレイにてより激しい分離を促してしまう部分は生まれてしまう。そしてその違和感というのは案外重たくプレイヤーのゲームに対する最終的な印象に関わってくるのだ。


 
現在のゲームは海外であってもストーリー表現の比重が増し、ゲームプレイとの分離の比率もまた増していると言える。たいていのプレイヤーは「ストーリーを読む」ということと「ゲームを操作する、解く」ということの二つが分裂していることを理屈で言葉にせずとも皮膚感覚で知っている。だがしかし同時にそれが決して完全に交わることが無くともギリギリのところにまで引き合うことがより良いゲームの体験を生むことも知っている。

 

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8件のコメント

  1. んと、ストーリーについては、日本のゲーム史をちゃんと追ったほうがいいです。
    そうすると、なぜザオリクが、ってのに対して答えは出ます。

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  2. >(出来れば名前明記をお願いします)
    ありがとうございます。
    やはり歴史的に日本がもっともストーリーテリングへの比重を高めた、ということでしょうか。
    出来たらもう少し詳細な忠告を頂けるとさらに有難いです。

    いいね

  3. ドラクエの主人公が死んでもすぐ復活するのはドラクエにセーブ機能がなかったころの名残。
    それでも死亡扱いにしてしまったのはウルティマの流れを汲んでいるから。
    ロトシリーズ三部作で徐々にウルティマのシステムに近づけてRPGを日本に浸透させようとしたけど
    RPGのキモであるキャラクターメイキングは主流にならなかった所がJRPGの大きな分かれ目。

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  4. >dさん
    >ロトシリーズ三部作で徐々にウルティマのシステムに近づけてRPGを日本に浸透させようとしたけど
    RPGのキモであるキャラクターメイキングは主流にならなかった所がJRPGの大きな分かれ目。
    そういや確かにプレイヤーが自分のアバターを作って仮想世界の冒険のできる範囲の強化という進歩を取らなかったんですよね。
    RPGというジャンルのルールや選択肢、駆け引きの面(あー長え。だから人はゲーム性と一言でいうのか・笑)を
    順当に進歩させるとMMOなり、エルダースクロールズシリーズになるわけで。
    90年代のJRPG全盛から時は過ぎ、2000年以降に海外PCゲームの流れがコンソールにも合流して行く形で
    特にストーリーテリング先行のデザインの弱点である自由度を感じるための選択肢の制限が強かったことなんかに対してのカウンターになっていた、とまあこれは自分のオブリビオンのファーストインプレッションなのですが(笑)、
    まあはっきりとは言えないのですがなぜ日本のゲームからストーリーテリングということの比重は増したのだろうかとやっぱそういうところの疑問は尽きないですね。

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  5. はじめまして、DeusExの批評を見ていてここにたどり着きました。
    ストーリーと実際のゲームプレイとの乖離に関してはGTA Vのコラムをちょうど読んだ後だったので面白かったです。
    今まで意識していませんでしたが、評価が高いゲームはどれも2つの要素がマッチしていますね。
    Watch Dogsもそこら辺は考えているみたいですが、それって結局は街で暴れまくっても違和感がないくらいに主人公のキャラクターを薄めるだけなのでは?とも思ったり…

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  6. >rikさん
    おお「デウスエクス」は発売からかなり経ったあとだったり時機逃したおかげで
    レスポンスがあるのか全く分からなかった記事だったんですが、ありがとうございます。
    あれも世界と物語にいいところまで合わせたゲームシステムの作品でした。
    Watch dogsはゲームの概要やトレーラーやスチールなど見る限り、
    今のところはバックグラウンドストーリーは不明ですが、システム先行でストーリーは辻褄合わせでまとめるのではと想像しています。
    アノニマスという印象を先に出しているだろうデザインの主人公の織り成す「街のシステムそのものにハッキングする」という基礎のデザインそれだけでかなりのところ持っていけてる印象があり、
    あとはその材料を生かしたルールと駆け引きのミッション、ゲーム進行の起伏に合わせた物語で
    まとめ上げてれば行けると見え、主人公のパーソナル的な物語先行型ではなさそうです。

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  7. ストーリーとゲームプレイの剥離といえば
    ゲームプレイで敵を倒した後に、敵と戦って倒すムービーシーンが流れるのなんて
    あれはどういうつもりで入れているのか首を傾げてしまいますね。
    元々は敵を倒す目的でゲームをしていていたはずが
    敵を倒すシーンを見るために敵を倒すという意味の分からないことに。

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  8. >海苔さん
    ああーあれは釈然としないものの一つですね。今さっきオレがやったことはなんやねんという。
    日本のゲームの傾向を想像しましたが、ゲームプレイとムービーを違和感なく繋ぐっての
    あんまりうまくできないとそういう没入を削いじゃうズレが生じますね。
    ああいうのは映像部隊とゲームデザイン部隊が別々にやってるから生まれるんすかね?

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