「Proteus」「Dear Esther」「アクアノートの休日」、もしかしたら「塊魂」などを評価する言葉”インスタレーション”

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 初期のプレイステーションで見られたものの、やはりゲームデザイン上セールス的に結果を出しづらいものであったゆえに鎮火してしまっていたが、近年のダウンロード市場の活況によるインディーズゲーム界隈にて再び見られるようになってきたゲームジャンルがある。

 それはかつて「アクアノートの休日」あたりを嚆矢として現在の「Proteus」といった、ゲームのルールや駆け引きと言ったものをすべて取り外し、あるテーマによって作られた空間を歩くゲームたちのことだ。しかしビデオゲームを遊ぶにおいて、感情移入に必須である細かなキャラクターや演出によるストーリーテリングから、提供されるルールや駆け引きといった要素がほとんどと言っていいほど排除されているこれらのゲームに関しての感想を目にするに、たいていの人々は「これはゲームなのだろうか」といった哲学的問答に落ち込み押し黙ってしまうのを見かける。どうやらビデオゲーム界隈にてこれらの作品に触れた際に明確な言葉を紡ぐことは難しいらしい。

 非常に簡潔なプログラムによって作られただろうこのジャンルはどうやら「何がゲームか」という本質論へと引きずり込んでいく、見た目以上に危険なジャンルのようなのだが今回はこのジャンルに言葉を与えるならこうなるのではないでしょうか?という記事。

■ビデオゲームの「インスタレーション」

 ビデオゲームにおいて、プレイヤーに提示される多数の選択肢によるルール・駆け引きといったプレイヤーが出力する技術習得や戦略構築の先にある快楽、その次にキャラクターと物語といったプレイヤーに入力されるわかりやすい感情移入先というのが無いゲームというのは俗にアート的、と呼ばれる傾向があると思うし、このあたりに関して明確な言葉をほとんどの人が持っていないことを象徴するかのように「雰囲気ゲー」という言葉が使われる。(これもはっきりとした定義がないバズワードですね。)

 ゲームのルールも物語も無いこれらの作品の賞味期限は、プレイヤーの技術習得にともなう難易度へのチャレンジやエンディングに行きつくことによるストーリー読了といった導線が無いため決して長くは無い。せいぜいどれも2、3時間程度で終わる。

 しかしそれらを極限まで取り外したことで生まれる作品のメリットとは、プレイヤーとゲームとの関係の根源的なものであるインタラクション(相互作用)そのものに触れることができることだ。それはあるテーマによって構成された空間をプレイヤーであるあなたが歩き、触れることによって生まれる作用のみで構成されているのである。それゆえにこれらの作品は「純粋な体験」というふうにも評されやすい。

 そしてこれらの空間を歩き、触れるゲームがテーマにしているだろうそれは現代アートにおける「インスタレーション」という手法が行っていることに近いのだ。もう少し視点を広げれば、家庭用ゲーム機、PCやスマートフォンといった電子メディアによるインターフェースも含んだ意味でメディア・アートの一種だとも言える。

 さてインスタレーションという手法を簡単に説明しておいた方がいいだろう。その手法の範囲はあまりに広いので本エントリの論旨に重なるもので限定して言えば、それは美術館や都市、自然といった空間を使って、あるテーマによって作品を展示し、空間ごと一つの作品にしてしまうというものだ。そしてその作品と空間を鑑賞者が歩き、観て、また作品によっては触れるなどによってそこから起こる相互作用を見取るというものだ。

 そのテーマには「光」や「火」、「水」といった自然物のエレメントから「映像」といった表現媒体といった側面のメタフィクショナルに提示することから、果ては「政治」や「闘争」といったものさえ含めて意味を変質させ、空間に提示していくのだ。

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 「光」というエレメントを改めて様々な形で意味を変え、知覚を変えようとするテーマの空間作りをするジェームズ・タレルのインスタレーション。

■初期プレステでの飯田和敏の作品 

 おそらく日本でこの手法を自覚的にやったのがプレイステーションで発売された飯田和敏の「アクアノートの休日」じゃあないだろうか?あれは表向きは深海を探検して海の魚を見たり沈没船を見つけたりといったゲームに見え、「2」以降はそのコンセプト通りに進歩するのだが、初代のその姿はあからさまに青い3DCG空間の中で異様なオブジェクトに触れることで当時のエレクトロニカ音楽が流れる、というゲーム体験であり、まさにインスタレーションがやっている切り口と見える。1994年当時、単に精微な海を表現するには技術がまだ足りなかったとも言えるが初代の異様さはそこにある気がする。

 この飯田和敏作品をさらに先鋭化させた形と見えるのは、、もはやビデオゲームの範疇から離れるのだがインスタレーション&ビデオゲームデザイン手法を援用した形として日本科学未来館の常設展示「アナグラのうた」というのも作られており、まさに空間情報科学を表現する形として現代アート手法とビデオゲーム手法を使いインタラクションそのものをテーマにしたものになっているのだ。

■そしてここのところのダウンロード市場で評価されたインスタレーション的作品たち

 「意味を変質させ、空間そのものを歩き触れる面白さ」という言い回しがややこしければ、それに当てはまる分かりやすいものを挙げるならば廃墟というのもそう言えるだろう。廃墟を探訪する快感というのはそれは日常で当然のように機能しているべき住むという意味のある家・マンションであったり、人を楽しませる・快感を与えるという意味のある遊園地であったりが、人が居なくなり老朽化していくことによってその元々の住むとか楽しませるといった意味を失い、徐々に朽ち果てた空間へと変わる。そこに訪れることを楽しむことが少なくなかったりするのを見かけるに、これがおそらく比較的分かりやすい形での「意味が変質した空間を歩く・触れる」面白さの形だろう。

 そして「Dear Ester」というのはそうした「廃墟」に触れる快楽がある。しかしそれは誰もいなくなった灯台、座礁した船を見つめながら記憶を辿るというそれだけではなく、廃墟敵であると言うのも2重に意味が重なる。というのも、もともと名作FPSハーフライフ2のMADからスタートした本作はFPSというジャンルの廃墟であるとも言えるから。

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 この作品にはFPSにて期待される交戦のゲームデザインが全て削られている。廃墟と化した島を探索しながらところどころで語られる男の、プレイごとにランダムで変わる独白を聞き、背景の全容を想像させる。それはFPSというジャンルの意味を書きなおし、そしてナラティブの方法を主にして新たに提示し直しているのだ。

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 わずかな表現で、1時間ほどのプレイ時間の中で四季が移り変わるエモーショナルな体験をもたらす。

 そして8bitのピクセルのグラフィックというビデオゲームのプリミティブさの象徴をテーマにしたインスタレーションと言える「Proteus」もまた美しく意味を書き変えて見せる。優れたアンビエントのBGMを背景に8bitで構成された動物や植物に触れることで生まれるメロディがそのまま一つの音楽を奏でるかのようになるインタラクションの心地よさや、島を歩きまわることによる時間経過による春夏秋冬の四季の変化の美しさ、そしてその移り変わりに暗示される生と死を強く印象付けて見せる。「スキタイのムスメ」の時にも思ったことだが記号性が高いほどに力強く意味が伝わるのだ。

 さてここまでに例に上げた「何らかをテーマにした空間と、そこに触れるインタラクション」「元々の意味を失い朽ちた廃墟を歩く」「環境そのものを表現したBGMジャンル・アンビエント音楽の中を歩く」といったこれらのインスタレーション的な作品のもっている良質の部分に加え、チャレンジとして提示されるパズルや謎解きが含まれることにより簡潔なMYSTのようなタイプのアドベンチャーを解いていく面白さがある、いいとこ取りの作品が「kairo」だ。

 単色の色の中で浮かび上がる様々な建造物があり、それは遺跡となってしまったそれなのかは分からないのだが、まずゲーム進行がパズルや謎を解いていくという導線に導かれる形ゆえにその美しい空間表現を背景として味わいやすい。steamでもリリースされてるが、オレはiosにてやってました。

■まさかのこのゲームもそれっぽい

 最後に「これも実はここまでに挙げてきたゲームの方向に近い」というゲームで締める。それはあの塊魂」だ。

 日常空間のあれこれを巻き込みまくって最終的に地球規模にまで巻き込んでいくというこのゲームだが、主要デザイナーの高橋慶太の経歴やインタビューなどを見るにどうもクリエイティビティが通常のチャレンジや戦略・駆け引き、ボリュームなんかを組みこんで行くゲームデザインを高めることにあんまり興味が無いように見える。

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 「塊魂」はいろんなもののつまみ食いでできたと語ってるけど、その高橋慶太のクリエイティビティをたぶん全開にした塊魂の本性と思わされたのはDL販売された「のびのびBOY」だろう。あれはもう「塊魂」が持っていた「時間内に規定以上の塊を作る」「そのためのルート決めなどの戦略立て」と言ったゲームメカニクスや、王子と王様といった分かりやすいキャラクターを排した結果残ったものは・・・完璧日本の美大生あたりが卒制でやるのかもわからないインタレーション的な作品なのである。

 キャッチ―なキャラクター、戦略や駆け引きといったゲームメカニクスから自由になったフルパワー高橋作品

 それにしても元々美術大学出身であったりするゆえに一般的な商業コードに嵌まる作品作りにあまりプライオリティを置いていなかったり、所属していた会社退社後に公園作りにいったりしたのちに再びまたゲームの現場に戻ってきたのだが明らかにやっぱりコンシューマー大手が要求するゲームジャンルのメカニクス構築とははるかに離れた作品の模様。 こうしたアート出身でゲーム業界と付かず離れずな経歴やクリエイティビティを見ていくに、高橋慶太と飯田和敏はとてもよく似てるのだ。

 それでE3にて発表された、やはりコンシューマーAAAタイトルが要求するゲームメカニクスから距離を置いていた「風の旅ビト」のプロデューサーと高橋慶太がタッグを組んだ、というのも当然の邂逅のように見えるである。

 

 

 
 

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