killer7 グラウンドゼロ 2001年9・11テロ後に壊れた現実の多層人格アドベンチャー考察

Killer7still

 「~年代」という風にディケイドごとに分けて各時代を象徴したカルチャーから時代性を見ていくというやり方はオーソドックスなものだけれど、2000年代というのは何があったか?というのはなんとなくだが簡単にはみんな割り出せないような気がする。それを社会的な背景を反映したものに求めるのか、ネットの発達浸透以降の文化環境の激変を象徴するものに求めるのかで時代性を象徴したものというのは個々人で変わってくるとは思う。

 オレが2000年代の初頭から中盤あたりの気分や空気というのをビデオゲームにて思い返すときには、時代の中でシナリオ変更を余儀なくされた「MGS2」でも、オープンワールドというジャンルを決定付け、凍結したかのような街を見せた「GTAⅢ」でもなく、なによりも先に「killer7」が思い浮かんでくる。

 既にあの90年代も終結して時代の異質さというのも、コンソール界隈がPS2・ゲームキューブ・XBOX世代になりソフィスケートされて無くなってきていた中で、2005年当時のカプコンから発売されたサバイバルホラーの系列として「バイオハザード4」「デメント」とあった中で本作は「多層人格者の主人公となり七人の能力を使って交戦したり謎を解いていく」という宣伝文句であったが、正直3作の中でゲームメカニクスとしてはガラクタだ。しかし搭載されているグラフィックスからムービー、そして物語といったビデオゲームにおける表現の脱構築に次ぐ脱構築の果てに、あの時代の気配というものに意識的に絡んでいった作品はコンソール界隈では一つとしてなく、2000年代唯一孤高にして異形の最高傑作。ということで「killer is dead」発売前記念・グラスホッパーマニファクチュア代表作「killer7」そして2000年代初頭~中盤の気配に関して感想と考察。

■まず、当時のGHMのゲームデザインとは?

 グラスホッパーマニファクチュア(以下GHM)のCEO・須田剛一のゲームデザインの異質さというのはまずなによりも通常のゲームデザイナーとの製作順序が逆転していることだろう。それはもう綺麗に。

 ビデオゲームデザインは(かなり単純化してみれば)基本的にはプレイヤーの行う操作や戦略構築の気持ち良さに加え、大前提としてのルールの設定、そして提示されるチャレンジやパズルの駆け引き、そしてプレイヤーの技術習得から勝利を提供していくハードルを設定していく成長曲線の設定によるメカニクスが先であり、搭載される物語やキャラクターといった表現というのはそのメカニクスをわかりやすくプレイヤーに習得させるためや感情移入させるための仕掛けに過ぎない。スーパーマリオはマリオというキャラやピーチ姫を助けるという物語の全てを無くしても成立するのである。

 ところが須田作品をやってみれば明らかにそうしたメカニクス設定に全くプライオリティが置かれておらず、物語と表現を作る方が先んじている。これだけの逆転ならばノベルゲーム界隈のADVデザイナーならば数多く存在していると思われるが、しかしその搭載される物語と表現というのが「エル・トポ」のアレハンドロ・ホドロフスキーや「ロスト・ハイウェイ」のデヴィット・リンチの映画なのかという現実と幻想といった区分から時系列やロジックが曖昧になる展開や、そして60年代の「気狂いピエロ」のゴダールや「汚れた血」のレオス・カラックスが映画に対して行ったことをビデオゲームで実現するかのような、表現の脱構築ぶりなどから他ジャンルには存在していたとしても、日本のコンソールゲーム界隈ではほぼ誰も持っていないクリエイティビティのエンジンを全開にしているのだ。

 そして以上の映画作家によく似た物語の認識からジャンルとしてのビデオゲーム表現までを解体・再構築するスタンスによって描くテーマは、これもまた大抵のゲームデザイナーが手を出さないし考えることさえない、自らの体験と感覚を元にした現実と時代性に関しての直接のアプローチだ。それによっていくつかの須田作品は当時の現実の時節とぶつかってしまうというシンクロニティがたびたび起きることになる。

 

■「花と太陽と雨と」と2001年・9月11日のシンクロニティ

 たとえばヒューマン在籍時の「トワイライトシンドローム」の続編、1997年の「ムーンライトシンドローム」、あれはもう「女子高生が心霊現象を追うアドベンチャー」というゲームメカニクスよりも閉鎖的な団地、クラブ、家族関係という近代都市の覆う現実の気配を描きつつ、メインストーリーにゾロアスター教の契約の神ミトラを模した白髪の少年が人々に介入し狂気の事件を生むという内容を描くことが主になっている。しかしこの当時作品背景を同じにしたかのような神戸連続児童殺傷事件が起き、大きな表現規制を食らうことになってしまったのだ。 この後にヒューマンから独立し、GHMとしての処女作「シルバー事件」にてこの脱構築しまくった表現により、マルチサイトで現実を描いていく方向性への完成を見せる。

 続く第2作・2001年発表の「花と太陽と雨と」は重苦しい90年代の都市とは打って変わって南国を舞台にした「ツインピークス」のような一話完結のドラマ構成で、カイル・マクラクラン演じるクーパー刑事を思わせる探し屋・モンドスミオが事件解決を依頼されるのだが、同じ一日を繰り返すロスパス島にて島に暮らす人々の数々の難題を解決する中で裏の陰謀に気付く。というものだ。

 花の21世紀突入ということで明るくお洒落でそしてバカゲーという空気に満ちている。だがしかし、ここで特大の時代とのシンクロニティが起きることとなってしまう。そう、9月11日のアメリカ同時多発テロである。モンドスミオが依頼される大きな目標とはテロリストが島に設置した爆弾を探すため空港に向かうことなのだが、人々の難題を聞いているうちに目的地に辿りつけず、発着した飛行機が頭上で爆発するのを見送る1日を何度も繰り返すのである。

               14:22より。飛行機の爆発を見送る1日をループし続ける

 9・11直後はもちろんながらエンターテインメントでテロ事件を想起・関連するような内容の規制・自粛が行われ、ビデオゲームも例外なく、有名なところでは米国にて2001年11月14日発売の「MGS2」変更を余儀なくされたことなどだ。

 「花と太陽と雨と」の発売日は5月2日。まさにギリギリ。製作当時のそれはビジュアルのインパクト目当てで当然大きな意図は無かったと思われる。しかしまさか4ヶ月後に全世界的にあのビジュアルのインパクトを与えることになったあの世界貿易センタービルに突入した飛行機の爆発という恐るべき現実とのシンクロニティというのは、当時のGHM陣営の心中にいかなるものがあったのかとも今だ思うのだが、これがテロリズムをモチーフとする「killer7」のクリエイティビティとして大きな影響があったのではないか?と邪推している。

■9・11というものの表現サイドの解釈・そして「killer7」が表現した世界 

 9・11というのはそうした社会事件による文化界隈の実務の影響だけではなく、21世紀に入って最初の世界のルールや概念が急速に書き変わったことの象徴的事態だった。

 まずテロリズムというものの概念が書き変わった。第一にはイスラム原理主義者アルカイダの犯行に対し、当時のブッシュ大統領はそれを新たなる脅威と呼び「新しい戦争」と設定し、それがあのアフガニスタン-イラクに至る中東戦争へと繋がっていく。社会に対する心理的な恐怖を与える手段であった犯罪行為が戦争行為とも定義づけられる変更だった。

 第2にはあの貿易センタービルが崩れ落ちていく光景そのものの現実との乖離感だ。少なくない知識人サイドが「まるでハリウッド映画のようだ」といい、精神分析ラカン派のスラヴォイ・ジジェクはその9・11に対し「現実界の砂漠」と評したし、村上春樹の「1Q84」ではその乖離感がインスピレーションとなり、近代偽史と言える物語に仕立て上げていた。

 つまりあまりに広い概念を持つこの言葉の周辺では、実体として捉えようにもすでに犯罪か戦争かという定義自体が揺らいでおり、さらには解釈において現実かフィクションかという境界さえも揺らいだまま、現実に進行していった中東戦争の実態もあの大量破壊兵器うんぬんを筆頭に真実と事実があやふやなまま泥沼化していった。どこまでも現実的な事態でありながら様々なレベルでの確かな現実というのが壊れたことの象徴とされたのである。
 

 「killer7」が取った9・11以降の表現とは、まさにテロリズムという概念の定義が揺らいだまま「新しい戦争」と言って確かな現実が揺らいでいったのに応じるかのように、現実と虚構、真実と事実、そして生と死に至るまでの、様々な境界があやふやになった壊れた現実を諧謔ギリギリの極端なデフォルメにした世界だ。

 このゲームの世界背景はこんなふうにデフォルメされている。世界各地の紛争に国連軍が介入することにより1998年に全世界の民族問題が解消。全世界の平和が宣言され、戦略兵器が「花火」と呼ばれる空中にてミサイルを撃ちあい爆発させ相殺させていく形で全て撤廃される。だがしかし「新たなる脅威」という笑う顔”ヘブンスマイル”による自爆テロが出現。国家はこれに対処するために全員がスミス姓を持つ殺し屋集団キラー7に始末を依頼することになる―のが表向きのストーリーなのだが、その内容は幾重にも捻じれることになる。

■ハーマン・スミス対するクン・ランという構図による「国家」と「テロリズム」の闘いの神話化、そして探索に待ち受ける膨大な死者の残留思念

 
 本作の簡単な対立構図は多層人格者キラー7の総大将ハーマン・スミスとテロリズム「笑う顔」を率いるクン・ランとの闘いであり、プレイヤーは多層人格の能力を使いながらバイオハザードにおけるゾンビにあたるクリ―チャーだが、実体か概念なのか曖昧な敵ヘヴンズスマイルと闘いながら、関わる殺しの依頼の中でクン・ランを追っていく。というゲームなのだが、ところがハーマンとクン・ランはときおりチェスをしていたりする。いったいこの総大将の関係はなんなのか?ゲームを進めるにつれ善と悪、敵と味方という境界自体があやふやであるのが分かってくる。

 探索のなかでヒントをくれたりキーアイテムをくれたりする待ち受ける人間というのも奇怪なことに全てが死者で、しかもどうやらキラー7が過去の依頼で始末してきた相手や関係者という。境界が壊れた時代と世界をモチーフとした本作だが中南米の文学の如く生者と死者との境界というものすら壊れており、どこまでも死の影を背負っているのだ。それどころか物語が進む中でそもそものキラー7を構成する人格たちも実は死者であることが分かってくる。

 多層人格の実態とは死者の人格を取りこみ実体化させるというものであり、これはおそらくGHMのデビュー作「シルバー事件」の主人公の一人モリシマトキオが物語の真相に辿りつくなかで多数の死者の思念が取り憑き、耳鳴りのように死者の呼び声が続き、人格を壊しかけ、自身の行動と死者の行動を制御できなくなることの延長だ。こうした膨大な死の影の表現を発想するに至る須田剛一の体験として葬儀屋の経験というのがよくクローズアップされる。

 そして最終的に総大将2人の関係とはある概念同士の相克なのだ。ハーマン・スミスは多数の死者を実体化させる殺し屋としてテロリズムと闘う「国家」の象徴であり、クン・ランは「ムーンライトシンドローム」の少年ミトラが人々の混乱を促したがごとく、時に人々にテロの手法を渡し、混乱に陥れながらヘヴンスマイルを広げる「テロリズム」の象徴で、この二人は死亡したとしても何度でも蘇り永遠の闘いを繰り広げるのである。それはさながら、女神転生ファンならばご存じだろうバリ島のヒンドゥー教のよる善と悪の化身であるランダとバロンが何度死んでもまた蘇り、永遠の闘いを続けるという神話のように、この二人の対立とは「国家」と「テロリズム」という概念を永遠の闘いの神話へと象徴化した形なのだ。

 

 かくてその神話の上に膨大な死者たちが導く背景が多重になる中で、一つの主軸となるストーリーが展開されていくのである。

■あのボタン移動の謎とは?脱構築されパロディと諧謔だらけのゲームデザインと表現

 こうした現実が壊れあやふやになった現実という時代の背景を描くことに続くかのように、「バイオハザード」のメカニクスを借りたサバイバルホラーと言うにはゲームメカニクスが壊れている。

 代表的なのがスティックによる自由移動ではなくボタンを押してのレール移動という方法。あれは本作にしょっぱなに戸惑わされる最たるメカニクスで何故こうした形にしたのか?というのも実は理由がある。これはHand in killer7の須田インタビューによれば「テキストベースのゲームが好きなお客さんも遊べるための入力装置なんです」ということらしく、つまりテキストアドベンチャーでのゲームの進行・コマンド選択のボタンで読んで進行させるという形をアクションに持ってきたという発想だったのだ!

 どう考えてもサバイバルホラーというメカニクスを作るという発想が先じゃない。だからこそプロデューサー三上真司が「(ゲームで)プロが考えるロジックで作ったもので『何でこうしたんや?』と聞かなくても作り見てると大体分かっちゃうんですよ。すると『ふーん、なるほどね。頑張ってね。』と終わるじゃないすか。須田さんみるとね、『えぇぇぇぇぇええ↑↑?』」サンタデストロイ サバイバルガイド様よりと言うのも頷け、冒頭に書いた大抵のゲームデザイナーのスタンスに戻ればやはり通常のデザイナーとスタンスが真逆になっていることの証左だろう。

Photo

            killer7グラフィックの元ネタ・ヒロ杉山のイラストレーション

 強烈な表現といえばあの「アメコミ的」と称されるあのメイングラフィックだ。トゥーンシェードのグラフィック表現は当時でも多くのゲームが使っていた手法だが、本作のグラフィックは明度をくっきりと面で分ける手法で有名なヒロ杉山のイラストレーションを参考にしたらしく(ここソース失念。昔どこかでウェブのインタビューあったはず)、テクスチャーを最小限にして徹底して明暗がくっきりと面で分かれて行く表現にしている。

 そのハードボイルド・ノワールらしい基礎グラフィックの上にいきなりそのイメージを壊しにかかるような様々なアニメーションの挿入・突然ギャルゲー風のキャラが突入してくるなどの分裂ぶりを見せ、果ては戦隊ヒーローとも決闘するというふり幅をも持つ。それは「シルバー事件」より続く「全部の表現手段を使いたかった(リンク先2:47より)」と言うスタンスによる膨大なジャンル内外からの表現の引用によるカオスぶりは「映画には文学も詩も演劇も写真も乗る」といいそれらを搭載したカオスを生んだゴダールの映画製作スタンスを思い起こすほどだ。

■まさかの広告代理店がAKB48を使ってテロリズムマーケッティング!的なエピソード

 特にAKB48全盛の今振り返ってみて興味深いのが本作のワンエピソードに連載コミックの戦隊ヒーローが突然テロを行いだすと言うものがある。それは戦隊がテロを起こす現実と漫画連載が連動しており人気を博す。ところがその騒動の裏は巨大広告代理店の集客の戦略であり、その代理店名はエレクトロ&ライン社。つまり直訳すればこれは・・・電通!

                     覆面センター

 連載で描かれる次のターゲットがキラー7が選ばれたことにより、電通主導コンテンツの戦隊ヒーローたちと正面衝突で決闘を行うことになる。ところがその内容はオール八百長で勝敗が決まってる。マジでなんだこれはと思っていた中、なんと実はこのエピソードはオンラインゲームでハッカーたちが戦隊ヒーローをプレイヤーキャラとして使っていたのだった。行きつく間もない物語のツイスト。最終的に決闘を生き延びたハッカーの少女がたった一人で電通へ復讐に向かうのをキラー7は見つめるという結末を迎える。インタビューにて「”茶番”がやりたかったわけです」語ったように、まさに今なら広告代理店主導でAKB48を丸刈りにさせたりとかじゃんけんで勝った奴がセンターという事件を起こして客を引くというパロディとして見ることが出来る名エピソードだ。

■ハーマンとクンという象徴の闘いの下で進行していく現実、そしてキラー7の正体とは・・・

 さてテロリズムを軸に、数々のエピソードで描かれるぶっ壊れた現実たちを超えて、最終的にはハーマンvsクン・ラン、キラー7対ヘヴンスマイルという構図に決着をつけることではなく、多層人格キラー7の正体が明らかになり、時代の現実へ目覚め収束していくことが物語の結末だ。カオスを生んでいながらメインストーリーに関しては実は序盤から伏線を張っていたりとさりげなく丁寧な仕事をしている。

 国家vsテロリズムの対立神話の下で進行するメインストーリーとはテロ以降のアメリカの中東戦争のアプローチではなく、メインはなんと日米安保条約の崩壊からの日本が合衆国を転覆させに向かうという背景なのである。突如日本に200発のミサイルが発射され安保条約により合衆国はミサイルで迎撃せねばならないのだが、合衆国サイドと日本サイドとその他が入り乱れ結局に200発のミサイルが着弾する。その後クン・ランが日本にテロリズムを与え、キラー7が合衆国サイドから事態に接触していくというのが表向きの情勢になる。

 しかし結末に向かうにつれ真に描かれるのはその対立に決着をつけるということの前に、多層人格者キラー7の真の主人格が明らかになっていくことだ。テロリズムの化身クン・ランがテロという手法や意思を与え混乱をもたらす構図のように、国家の化身であるハーマン・スミスもまた、ある一人の凶悪な殺し屋を国家によって管理しようとし、多層人格とはその過程の中で発症したものだったのだ。そして真の主人格者とはハーマンが管理したその殺し屋だったのである。最終的に自らのアイデンティティを取り戻した主人格者はハーマンとクン・ランを皆殺しにし、合衆国の一人の殺し屋として日本へと向かいこの時代の「国家」と「テロリズム」の闘いに決着をつける。そしてまた100年後には次の時代の「国家」と「テロリズム」の関係を示すかのようにハーマンとクン・ランは蘇り、闘い続ける。

 つまりこれもまたアドベンチャーゲームの王道といって差し支えない「記憶喪失とその回復によるアイデンティテイ再構築」であり、前回の「Gemini rue」評とも繋がるのだが最終的に自身の正体の判明とその立ち位置、世界の構造を認識して現実に目覚めると言うという流れなのだ。実のところカオシックな須田剛一作品でなにより信頼できるポイントはこうしたプレイヤーと物語へのインタラクションを決して落とさない所にあると思うのだ。

 「killer7」はテロ以降完全に現実を構成する様々な境界があやふやになったカオスをカオスのまま表現したそれであり、結末にてようやく自身と世界の立ち位置を見出す、という意味で壊れた現実にケリをつけるADVというジャンルのシナリオの王道によってまとめ上げている。そのためオレには前の10年間を思い起こす時いつもこの作品が思い浮かぶのだ。

 というわけで締めは最終エピソードクリア後に出てくるハードな2つ目のエンディングテーマ「Reenect」・・・ではなく、その元ネタとなった音楽を一つ。本来この曲を使いたかったらしいがそれはやはり権利関係で出来なかったので近い曲として作ったとのことで、これはグラスホッパー・マニファクチュアというデベロッパー名の元であり、クリエイターとしての原点の意識を反映したものだという。その名も90年代シューゲイザーの代表バンドRide・「Grasshopper」だ。

 
 
 
 

 
 
 

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