「The Stanley Parable」感想と考察・フランツ・カフカからオーウェル、時にマルセル・デュシャンすら喚起する笑いとジャンル破壊の美のメタ・ビデオゲーム

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 FPSという形式は気が付けば多様に表現を飲み込むジャンルだ。単なる主観視点の没入感を持った銃の撃ちあいなんて一形式というのを越え、現在では時にアドベンチャーゲーム的な扱い、あるいは現代アートにおけるインスタレーション的、メディアアート的にさえなるし、またプレイヤーが操作するプレイアブルキャラクターの一人称・三人称の差という、小説における主観としての「僕」「私」か三人称で記される人物を追うか、といったストーリーテリングの構造面さえ含むのだ。

 「The Stanley Parable」とは現在のFPSのジャンル環境を取り巻くおおよそがパロディにされた、メタフィクションをやることがコンセプトになっている。ところが、単なる内幕や骨組みの公開というレベルに留まらず、その切り口の鮮やかはかつての文学からアートさえ喚起させるほどだった。ということで自分の2013年ベスト1のレビュー。いっつも他ジャンルに脱線しがちなこのブログであるが、今回は通常の5倍くらい脱線する内容。

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 やはりというか、プレイヤーがビデオゲームで介入できるのは結局のところシステムやメカニクスだけだ。そこへビデオゲームが提示する何らかのルールに沿った勝利条件や、目的を提示することで進行させるのだが、そのメカニクスに付加されるキャラクターとその物語を観ていくという観点が入った瞬間、プレイヤーの自発性は抑えられ、一本道のようになる。マップ自体が本当に一本道になっていた「FF13」をここで笑ったっていいが、多層的な表現を行った「bioshock infinite」にしてもそうだ。

 それは傍目から見れば「ゲームマスターの言うことに合わせてプレイヤーはコントローラーを動かしている」という極めて滑稽な姿のようにすら映る。「The Stanley Parable」といううタイトルを直訳すれば”スタンレーの寓話”となるのだが、本作の主人公・スタンレーの設定にそうしたビデオゲームとプレイヤーの関係の寓意が表れている。というのも”パソコン上で指示されるキーを押し付けるだけの業務”を行うどこかの会社の社員なのである。

 

 ところがある日の会社でいつものようにパソコンの画面の指示に合わせてキーを押していた中で、突如として周りの社員が消えてしまう。不思議に思ったスタンレーは部屋の外へと出て真相を探るのだが・・・という背景からゲームはスタートし、プレイヤーはゲームの目的や方向を指示するゲームマスターのナレーターの言うことを聞いて動くか否か、を選択し、ビデオゲームとプレイヤーの駆け引きを見ていく、というメタフィクションを楽しむのが基本的な進行だ。

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        プレイヤーの抵抗によって、崩壊や混乱が起きていく

 しかし皮肉や寓意にまみれた背景でありながら、オレが想起したのは実存主義文学のひとりとされるフランツ・カフカの小説、それも「変身」じゃなくて「審判」「城」といった、何か実態のないシステムに主人公が引っ張られて右往左往していくというそれだ。あれには国家や制度といった及びのつかないものに一人の人間が翻弄される、というような寓意が込めてあるだなんて評価が簡単な文芸批評にあるとはおもうけれども、実際の作品は正直な話当時の作品の評価(といってもカフカの評価の歴史にも色々あるんだけど)というのも実質的には「The Stanley Parable」で今日にゲーマーが受け取ってるようなギャグの側面が大きかったんじゃないの?という気すらしてる。

 カフカはすっげえ「社会システムが~制度が~」って語り方になりがちなんだけど、実際保健局に勤めていたというシステムのサイドにいたカフカだからこその、体験やエスプリを元にした国家や社会の性質を茶化したギャグにしたみたいな部分も少なくはないと思う。(ある意味、モンティ・パイソンからごっつええ感じのコントのような部分さえあるというか)ちょうどこれはビデオゲームとプレイヤーのシステムと制度のパロディである本作は似通っていて、実態のない仕事を行うスタンレーやナレーションに翻弄されるプレイヤーであるあなた、というのさえ込みで、真にカフカのエスプリをビデオゲームで立ち上げた作品とも見える。


   まあカフカやら社会システムと実存主義云々パロディどうのが難しい話なら、早い話コントでいったらこんな感じ

 喚起させられるのはカフカだけじゃない。ほんの少しのネタバラしをさせていただけば、エンディングの一つには会社があらゆる従業員の行動様式を監視しているという会社の実態が明らかになる。その膨大な監視カメラが壁中に配置された光景の凄まじさから、表向きのストーリーである実態の不明な会社に縛り上げられるスタンレーの関係や、ナレーションによって縛り上げられ、抵抗するプレイヤーという2重の関係によって次に喚起させられたのはジョージ・オーウェルの「1984年」~テリーギリアムの映画「未来世紀ブラジル」といった全体主義社会のシステムによって監視され縛られる個人とその抵抗といったディストピアSFの名作群であったりする。

 ビデオゲームがある目的や進行の条件を達成させる、といったことを提示させ、プレイヤーが実質その指示に従うという束縛感や抑圧、不自由さというものの全体主義的な規律の見立てというのは去年も国境線上で入国手続きを行い続ける「papers,please」などが表現していたが、本作もまたガッチガチにシステムと関わり、同時になんらかのストーリーラインを進めるということに伴う抑圧、そして同時に抵抗の感覚さえも極めて周到に寓意として表現していると言える。(抑圧からの解放、自由を表現するエンディングもあるしそれもまた典型的で笑うくらいだ)

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     プレイヤーが触れられるのはメカニクスしかない。ゲームを進め物語を得るには指示に従うしかない。そうしたゲームとプレイヤーの関係に対しての全体主義ディストピアの見立ての光景。

 

 ナレーションの指示に抵抗を示すことで、様々なFPSの可能性に分岐し、ここ現在の「マインクラフト」からアンビエントな「proteus」に至るまでのFPSの各種のトレンドをも見せてくれるというのも見どころといえるだろう。

 
 こうして現行のFPSの傾向を総ざらいにしてパロディにする、ほとんど嫌がらせともいえる構成をそのまま作品化し、インスタレーションにさえしているというこの感じはさらに突き抜けてアートの歴史における、ジャンルへの懐疑と諧謔を行い現代アートの領域を拡大させてしまったマルセル・デュシャンさえ喚起させられるほどだ。

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      デュシャンのほぼ嫌がらせ、ただの便器に匿名の人物の名前をサインしただけで「作品」とした「泉」 発表当時の展覧会の委員会が議論の末展示を取り下げるのだが、なんとその委員会のひとりが当のデュシャン。その後新聞上で作品を取り下げた委員会の批判を展開。自作自演によって当時のアートのジャンルの定義そのものを揺るがしにかかった。

 まあ現行のあらゆるFPSをフォローしているジャンルへの敬愛が溢れているゆえデュシャンの泉ほど決定的にジャンルを欠片も愛してはいないアプローチではないにせよ、(ビデオゲーム界でまるでビデオゲームを愛していないかのような身振りが見えるのは「塊魂」「のびのびBOY」高橋慶太くらいだ)ジャンルを熟知したその上で、ジャンルへの懐疑に基づくようなパロディや定義の徹底的な洗い直しのその範囲の広さの前にその領域さえ想起した。

 

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  究極的には「The stanley parable」のコンセプトそのものが美術展示にまで。どこまで自覚的なのか不明ながらFPSのインスタレーションぽさまでメタに見立てるかのようなフォロー範囲や素養の広さ。

  「The Stanley Parable」はある意味では現代のFPSの構成取ってる作品からクリエィティビティの範囲をフォローしすぎてヤバい領域まで来ているのではないかとすら思うくらいだったりもする。一応ビデオゲームはポップカルチャー区分でいいと思うが、アートの歴史はデュシャンはじめメタにメタを極めてジャンルの定義崩壊していることがジャンルの定義というくらいにまで(※とはいえ、何でもありではなく、徹底したコンテクストに根差した作品作りが無論必要。そこらのクズがカップ麺のゴミを置いてアートですと言っても通らない)なっているのだが、ビデオゲームでアートの歴史が辿ったようなそこまでの自己破壊は起こるのかどうか?は今後のシーンでは定かではない。

 本作はFPSへの知識や愛に基づいている感じが強いので決定打の破壊は抑えられているんだけど、いまや数々のアート的FPSというのは海外のサイトでもくもくとフリーでアップロードされており、どれも新たなナラティブや新たな視点を獲得しようとしている。どれだけグラフィックスにこだわるか、新たなゲームデザインをするかと別の、ビデオゲームの定義論に至るレベルの闘いが水面下で行われていると見え、「The Stanley Parable」はそのデカい一発という気がする。

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     生命を規格化作品化するダミアン・ハースト作品、輪切りの牛。ジョジョ第5部の「ソルベの輪切り」の元ネタ。

 アートとデザイン、ポップカルチャーとハイカルチャーの連携はアメリカ見ていると珍しくないことなんだけど(たとえばレッド・ホット・チリ・ペッパーズのジャケットデザインをダミアン・ハーストが担当したり、レディー・ガガのジャケットをジェフ・クーンズが行ったりとか おっと生肉のドレスなんてのもありました)、そのあたりのビデオゲームのカルチャー的立ち位置ってのもどうなるんだろうなとも思う。まあポップカルチャーがアートが切り開いた視点や手法を持ち込むのはジャンルの範囲を広げようとする意味があるが、職能的にぐちゃぐちゃにもなりやすい。逆に実際のところのアートサイドがビデオゲームを扱う場合そういうアート手法を行ったものって歯牙にもかけなかったりするかもわからない。

 本作はじめアートとビデオゲームの職能はどこまで近いか?なんて考えると、アートが文脈に基づいたコンセプチュアルなやり方で徹底的なジャンルの破壊に至れるのはストーリーテリングだのの問題がジャンルから除外されていった経緯が多分にある一方で、ビデオゲームが(現在のところ)根源的な定義の崩壊や否定までも免れているのは結局のところゲームの進行に一方通行的であったとしても、プレイヤーの自主性に任せるとしてもなんらかのストーリーの必要があるゆえではと思われ、アート的FPSの大半もインスタレーション的なアプローチまでいくけども完全な定義否定まではいかないのはそもそも物語性を核にゲームとプレイヤーの関係をテーマにしているから、だなんて際限がなくなるのでここまでにするが…

 なんにせよカフカなどのその当時でのジャンルに対しての混乱と笑いの感覚というのを今日リアルタイムで体験することのできる稀有な体験ではないか?ともいえるし、そして今後「The Stanley Parable」が未来に振り返られた時にカフカやデュシャンのような位置になるかどうか?それとも一時のあだ花か?新たなシーンの嚆矢となりえるか?とは神のみぞ知るだろう。

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7件のコメント

  1. どうも失礼します、通りすがりです。
    こちらはStanly Parableを遊んだことはないんですが、記事を読んでたらApple IIのPrisonerってゲームを思い出しました。
    http://www.filfre.net/2011/11/the-prisoner-part-2/ (←たぶんネット上で唯一の、Prisonerに関する詳細な解説。というか私はこれを読んで存在を知りました)
    Apple IIってことでいうまでもなく古いゲームなんですが、ゲーム全体がメタ構造になってたり、監視社会らしき世界観だったり、カフカの城からの引用っぽい部分があったりとか(まあ詳しい解説は上のページに譲ります)この記事と接点の多いゲームじゃないかと思います。
    ただまあ、Prisonerの構造は古きよきプレイヤー対ゲーム(制作者への挑戦)の形式に則っていて、現代的な一本道・快感重視のゲームを皮肉っているらしいThe Stanly~とは向いてる方が結構違うような気がしないでもないですが・・・

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  2. >Quaint さん
    うおおすごい情報ありがとうごさいます!Apple IIのPrisonerの記事、興味深いです。
    ぼくも軽い知識程度なので恐縮ですが、初期のアドベンチャーは
    コンピューターとの対話という形でプレイヤーと相対していたという
    もともとがインタラクティブの関係を表すものだった、といいます。
    やっぱり昔のクリエイターもこうした関係に自覚的であって、
    Prisonerなどをはじめそれを別のものに見立てるというのは
    多かったのかもしれません。
    PC、コンソール、スマホ・タブレットとインターフェースの違いによって
    インタラクションの方法も違うため、人間と機器の関係は違ってくるかもなということで
    PCゲームの流れによるStanly Parableを
    こうした文脈によって歴史的に読むってのも興味あります

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  3. 返信どうもです。
    ちょっと元のコメントが英語記事丸投げで雑すぎたので補足しておくと、Prisonerは"島"なる場所に閉じ込められたプレイヤーがそこからの脱出をはかるという、まあよくある脱出ものみたいな単純な筋書きのゲームなんですが、これが実は・・・まあ、ぶっちゃけて言ってしまうと”ゲーム”そのものが”島”である、というのが最後に分かる答えなんです(ちなみに、ゲームプレイは移動中心で、むしろ初期のCRPGに近いです)。
    プレイヤーが脱出するのはゲームってことで、これが一般的なアドベンチャーゲーム(終わりに向かって進める)のメタファーになってる上に、本来道具であるはずのコンピューターに逆に振り回されるプレイヤーへの皮肉にもなってるわけです。コンピューターならではで、ゲーム専用機だとこの構造は成立しにくいですね。
    まあ、娯楽性が意識的に排除されてて、一般的な面白さは皆無ですが・・・
    70~80年代の欧米コンピューターゲームは、実験的で娯楽性が希薄でもユーザーが許してくれていたらしい様子が明らかにあって、その辺今のインディーに近しいとこがありますね。
    >初期のアドベンチャーはコンピューターとの対話という形でプレイヤーと相対していたというもともとがインタラクティブの関係を表すものだった
    私もいくつか遊んだだけではありますが、テキストアドベンチャーは今の洋物ゲームの古い源流という感じが強くします。ZORKなんかは箱庭フリーローミングな要素が強いですし・・・
    ひでえ長文失礼しました

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  4. >Quaintさん
    まだ製作者がゲームを一通りプレイヤーを
    筋書きに乗せるデザイン(それはストーリーをなぞる、というレベルでなく)を
    そこまで徹底してなかったであろう時代は
    プレイヤーはゲームの世界に放り出してあとは勝手にしてくれ、みたいな
    デザインが少なくはなかったと思います。
    って、厳密な知識あるわけではないので与太話程度の認識ですが・・・
    しかし自由つってもやっぱゲームメカニクスとデザインによって許される範囲まで。
    プレイヤーは決してその枠外以上のインタラクションは出来ない、という関係は
    いま小規模作品で掘り下げられているかなと見てます。
    >ひでえ長文失礼しました
    いえいえ、ありがとうございます
    こういうエントリ書き散らしてるのもそちらのようなコメントがいただけることも
    当初の目的の一つでしたし、今後もよろしくお願いします。

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  5. 最近プレイしたんですけどこれまじで傑作じゃないすか!!
    こんなにパターンがあるだなんて思いませんでしたよ。しかも好みのネタばかりで!
    個人的にはメタネタはとっくに飽き気味だったんですけど、これのせいでメタ欲がでてきそうです。
    ひとつひとつがセンスあるのも良いですね。
    正直、もっとボリューム増してナレーターと仲良くなって大冒険したあとに台無しにするENDとか観たい

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  6. >sabooさん
    メタフィクションつってもやっぱ高低はあるわけで、
    観客と演者の関係だとかジャンルそのものの構造の問題だとか
    表現のトレンドの変貌によってその豊饒さは変わるわけです。
    特にhalf-lifeのMOD文化はFPSの存在意義や構造に
    大きくアプローチするような作品が膨大に出てきたわけで、
    その極致として本作があるのでは、と見てます。
    (文脈的に正しいか?はちょっと置いといてます。)

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