「Papo&yo」感想と考察 南米の少年の”病んだ親からの虐待”の記憶を巡るファンタジーそしてドキュメンタリーのビデオゲーム

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"母さん、兄さんたちと姉さんたちとそれから誰かへ ぼくは父さんの中の化け物から生き延びたんだ”

 Hanbleで安くなってたので買ってみたら凄まじい傑作だったのでひとつ感想を。2年前のPSNでリリース、それから去年にPCという経緯の作品。

 「ブラザーズ」など物語と結合するパズルアクションの傑作が多くリリースされるなかで「Papo&yo」は過小評価されている。それはIGNの低評価に見られるようなリリース当時のこのジャンルに期待されているパズルの難度だのストーリーに関してだったり、はたまた大メディアに対して広告料の少しも出さずコネクションもなかったゆえの根回しなしの評価なのかはわからないが、極めてクリエイターの個人的な問題をテーマとしているこの作品は出身地としている南米のスラムの現実と少年の空想という関係から、トラウマとサイコセラピーのプロセスという精神治療的な側面さえ含めたリアリズムとファンタジーが結合した類のない体験を形作っているのだ。

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 「Papo&yo」で目を引く乱雑に積み木のように重ねられた街並みは現実に存在する。それはブラジルのリオ・デ・ジャネイロはじめ南米のスラム街の総称である”ファベーラがモデルとなっている。

 その場所は治安は最悪であり殺人からドラッグまで犯罪が絶えないようなところだ。映画「シティ・オブ・ゴッド」「エリートスクワッド」で描かれていることでも有名であるが、フィクションの形で現実のえげつない事実は抑えられているとはいえ、ファベーラ内で行われるドラッグや銃器の利権を巡った殺し合いにはなんと少年までも関与するほどであり、銃で脅すため子供がなんと足首を撃たれるまでの凄惨な描写さえ存在するのだ。それほどの環境として描かれている。

 かようにファベーラは南米の無法地帯として近年の映画界でスキャンダラスかつバイオレンスな現実を半ばドキュメンタリーのようにして知らしめている。「シティ・オブ・ゴッド」の続編「シティ・オブ・メン」では父親が犯罪を行い摘発されて子供たちと引き裂かれる。社会や世界についてわからない子供はでは誰を親として生き方を学ぶか?と言ったら地元ギャングを親としていくような背景を軸に、ファベーラで生きる父と子の関係、生きていき方の関係までも丁寧に描いている。そうした土壌で親もその周りも相当なことになっている環境は少年にとってハードなものなのは想像に難くない。

 ファベーラの厳しい環境からも「シティ・オブ・ゴッド」の語り部ブスカ・ペがカメラマンの道を見つけ脱出しようと行くように、サッカーで有名になっていった人間も少なくはない。そのような経緯からビデオゲームの道に進んだのだろうか?と「Papo&yo」の作風と、クリエイターであるヴァンダー・キャバレロの簡単な経歴から想像させる。数多くのファベーラを映した映画が出身者の現実の凄惨な事実をもとにしているように、本作はファンタジーやジュブナイルの体裁を取りながらキャバレロ本人の体験や事実から構成されているのだ。

 

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 「Papo&yo」の風景は、先の映画たちのように銃声が当然のように鳴り響くファベーラが舞台の作品の中では異色のように映る。主人公の少年・キコが実態のわからないモンスターから逃げ出してきたなかで入った町の中で、不思議な少女を追いかけた先ではほぼ誰もいない中でチョークの落書きがところどころに見かけられる。

 

 追いかけた先で少女が壁にチョークで扉のようなものを描くと、そこからなんとワープしてしまいどこかへ消えてしまう。どうやら街中に描かれている落書きに触れればそこから魔法のように町が動き出し、その姿形を変えていくのだ。時に積み木のような町は本当に積み木のように動かせたり、または虫や鳥のように動き出しもする。南米の血まみれのスラムの街並みと対照的な幻想的な光景にはついついホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説などで評されてきたマジックリアリズムの光景をビデオゲームで実現したかのようとさえ感じ入ってしまう。

 チョークで書いた少年の落書きが見せる、チョークで組み上げられた少年の空想の世界の視点と残酷で過酷な現実を常に映し出し続けるファベーラの共存したロケーションはそのまま「Papo&yo」を読み解く過酷な現実とそこから逃避するための空想の共存した主人公キコの視点だ。やがて喋るロボットに出会い、二段ジャンプもできるようになったころに、先に進むためにモンスターと出会うのだ。

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 「ICO」はじめ主人公のコンパニオンとの能力の協力にこそパズルアクションが持っている様々な感情を呼び起こすポイントがあると言えるだろうが、このゲームに限っては得も言われぬ複雑な感覚を呼び起こす。モンスターは木の実を常に求めていて、一通り食べきってしまうと眠ってしまう。それを利用して特定の場所まで誘導させるというのはいい。しかし同時にカエルも常に求めているのだが、それを飲み込んだ瞬間に身体は真っ赤に燃え盛り凶暴になり、キコに襲い掛かる。

 ここで歪つと感じるのは凶暴化したモンスターにキコが襲われてもそのまま「GAME OVER」が表示されるわけでもない。さらには襲い掛かったあとも凶暴さはやむことはなく、叫び声をあげて倒れ伏し、立ち上がったキコに襲い掛かかり続ける。さらに進めると凶暴化したモンスターはキコの大切なロボットまで破壊してしまうほどの暴行をみせる。

 キコを導く少女はこのモンスターを寺院へと連れていき、シャーマンに見てもらうことでそれを治してもらうというのだが、その旅路が進むごとにキコが見ていた幻想は解けていき、過酷な現実の記憶と対峙していくことになる。

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 一見ジュブナイルのようであるのに、どこかしこに過酷さや歪さを感じざるを得ない作りであり、エンディングの展開に関しても賛否が分かれるほどのものでありストーリーとしてもっとも落ち着く緊張と緩和、そして大団円を迎えるというそれじゃない。こうした展開となったところがヴァンダー・キャバレロ自身の体験のほとんどをベースにしているゆえだろう。

1UP・キャバレロのインタビューより

Q:どのようにあなたが子供の時を表現する方法をとったのですか?よければ話してください。

キャバレロ:少年のころ、ぼくと家族はずっと遭遇したトラブルの渦中にいた。ぼくは家族のみんなと一緒にいた時に、そう…僕がその状況を確かめただろうし、そしてぼくはみんなに言っただろう。「なんで父さんは酒を飲むのを止められないんだ?簡単だろ、飲むのを止めるのは」 

 だけど、ぼくは頭の中だけでそう考えていたんだ。ぼくにそれを言うことはできなかった。若すぎたから。ぼくはそんな正しいことは言えなかったんだ。ぼくのやったことは何もかも間違っていた、僕の言ったことも何もかも間違っていた。でもそんな感じだったんだ。ぼくは家族を見ながら考えていた。「みんな何が間違っているんだろう。なんでそれが出来ないんだろう?」

 ぼくが兄さんに会ったときだったか…子供の時で、七歳くらいだったか、兄さんは酒を飲み始めていた。ぼくは思った。「なんでみんな飲んでいるんだ?ぼくたちを不幸にすることがわかっていないのか?」ぼくはそれがコロンビア(※出身地)を去った理由の一つと思っている。

 ぼくにはそんな構造を変えることが出来なかった。そして今ぼくはそんな構造を変ええようとしている男になっているんだ。なぜならその構造は虐待と間違いを起こすものだと信じてやまないから。それはAAAタイトルのゲームにたいしてどう感じているかのようなものかな。「こんなの間違っている、ぼくがこれを変えていきたい」ぼくはコロンビアからそれをやるために逃げ出さなきゃならなかった。ぼくに家族を変えることが出来なかったから。

Q:ゲームを1時間半ほど進めたなかで、スローモーションのシークエンスになります。車が雨の中を走っているところです。あのシーンにはあの他の人生の実体験がベースとなっているのでしょうか。良ければお話を。

キャバレロ:あれは全て現実にあったことを元にしている。だけど詳しくは話したくはない。話したくない理由は…あれは公にはあまりにも感情的なものを引き起こすから。

 ぼくはアルコール中毒に関しては喜んで話すよ、ぼくはどういう風にして父親が中毒になっていってしまったのを知っているから。ぼくは他の人たちを助けられる。だけどその状況で何が起きたのかは…ぼくは他の人々を助けられるとは思わなかった。助けるのにドアを開けて相対するのはあまりに危険だった。だけどぼくの目的はそのフラッシュバックをより深くみせることだったんだ…それをより、もっと。みんながそれを確かめる。ぼくはそれでいいんだ。

 キャバレロはゲームの構成に関して「メカニクスを高度化していれば感情は湧き起こらない」とも先のインタビューで言及しており完全に「ブラザーズ」の時のオレの意見とも一致 しており、自身の記憶と体験、そして感情を生むための方法が徹底している。

 「Papo&yo」はそのまま訳せば「パパと僕」。本作は徹底してキャバレロ自身の原体験を、まるで精神治療の一環に関わる形で追いかけるかのようであるし、その意味ではビデオゲームを作っていく過程そのものが既にユングの箱庭療法的でさえある。それは過酷な現実からの空想、それから物語を作ることによって治癒へ向かうそれだ。南米の過酷な現実のドキュメントの変形のようであるし、逃避としてマジック・リアリズム的なファンタジーがあり、そして一人のクリエイターの幼少時代のトラウマの治癒を追いかけるセラピーとしての側面のすべてを体感する。あのエンディングとはキャバレロにとっての治癒が終了した瞬間なのだ。そこに引っ張られる形で少し泣いた。

 

 
 

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