ゲームの8bit~16bitのリバイバルは一体いつ、どこから来て、そしてリバイバルを越え、独自進化したのか?

 

Image

 今ではPCやスマートフォンで簡単にダウンロードできるゲームなどで8bitや16bitのグラフィックやサウンドをもった意匠のビデオゲームを当たり前のように数多く目にするけど、それにしても進歩し続けるビデオゲームのグラフィックやサウンドへのカウンターのように現在でも存在感を見せ続ける8bit16bitリバイバルは一体いつごろから、そしてどのように発展してきたのだろう? あんまり綿密な検証は出来てないながら、簡単な話題くらいに考えた雑記。

 

 

 ポップミュージックやファッションなどなどが60年代~80年代といった各時代ごとのモードのリバイバルというのを行うことも当たり前のようになっているのだが、現在のビデオゲームに関しては先のPCからスマホでのダウンロード界隈ではもうこれはリバイバルがリバイバルを過ぎて独自発展化してる段階にある気がする。(ここはまだまだ浅い私見なんだけど、現行の少人数製作で強いヴィジュアルまたはサウンドの印象を提示できるフォームとして8bit16bitは有効に働いているからというか。)

 リバイバルは進歩し続けるカルチャーの現実に対して、過去を一つのエッセンスとして捉えることが出来るようになるほどデザインや技術のレベルが上がった時に起こる。あらゆるジャンルでそれは変わらないんだけど、その中でもビデオゲームに関しての非常に大きいシェアを誇る4bitから16bitに至る技術の時代がいかにして現在のようにエッセンスになり、それどころか「懐かしい」「レトロな」といったリバイバルの意味さえ越え独立していくようになったのか?というのは長らく引っかかっていることだ。

 乱雑にビデオゲーム史を眺めるに、どのあたりでビデオゲームカルチャーの技術と視座のレベルが格上げされ、過去のリバイバルを可能にしたのか?ここから極めて狭いレベルの範囲で申し訳ないと前置きしつつ進めてしまうけど、最初期のアメリカのオデッセイからアタリ社の数々のゲーム機、それからPCの流れなどなどはほんとフォロー外になってしまうんで、すっげえ単純かつ歴史の一部分であるがファミコンからプレステといった家庭用コンソールの勝ち馬の歴史からリバイバル発生を雑に見だしてみようと思う。

 8bit時代を制してきた任天堂のファミコンでのマリオやドラクエといった人気シリーズが、16bitのスーパーファミコンにて「スーパーマリオコレクション」とか「ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ」としてリメイク、といった流れがあったが、この時点では「過去の荒かったものを今の技術と解像度に合わせたものに仕立て上げる」という今のPS2作品をHD化して再発売あたりの意味に近かったように思う。

 明確なリバイバル期というのが垣間見えるようになっていくのは32bit時代のサターンやプレステ時代あたりからのように思う。大容量が使えるようになり、大作の中のミニゲームという形で8bit期のゲームがもぐりこむ形となっていたのが少なくはなかった。

 たとえばアーケードゲームのコンソール移植の「ダイナマイト刑事」にはコンティニューを稼ぐミニゲームとして「ディープスキャン」が含まれていたり、PSのナムコの「鉄拳」には「ギャラガ」が入っていたのだ。どちらも当時の先端であるリアルタイム3DCGを生かしたアーケードのアクション・格闘ゲームであり、その過去のアーケードゲームとして8bit作品を含むという構図となっているのだ。

 それだけではなく、プレステ・サターン時代あたりから過去作品を一気にアーカイブ化した試みのソフトがリリースされていく。「ナムコミュージアム」シリーズや「セガエイジス」などなどが過去作品を現行機で遊べるようにするという試みが為されていき、その後もwiiバーチャルコンソールからPSアーカイブス、XBOXLIVEといったものからsteamやGOGをはじめとしたダウンロード販売の形で過去のアーカイブ化は加速していく。

 ビデオゲームの表現レベルの進化とジャンル全体の底上げと、過去のアーカイブ力が莫大に増加した結果、リバイバルに至った。と、こう言ってしまえば話は早いのだけど、では初期のプレステやサターンのガクガクの解像度やポリゴンのリバイバルは既に多くの作品もアーカイブ化されている段階にあるのにも関わらず「マインクラフト」ぐらいしか見当たらなくて、8bit16bitのエッセンスが特にフィーチャーされるのはなぜか?

 それはやはりビデオゲームの2D時代と3D時代という決定的な断絶が無縁ではないのだろう。この2D・3D間のビデオゲームの環境の変貌というのは未だに大テーマとすらなっている感があり、特に任天堂の「ペーパーマリオ」から「神々のトライフォース2」などや、インディーズゲーム「Fez」に至るまでこの断絶はゲームメカニクスの形で提示され続けている。8bit16bit時代が2Dでのビデオゲームのフォーマットのほとんど最後のものであったがために、今でも強い意味を持って起用されている気がする。

 

  今のところ、オレ個人の雑感からビデオゲームの8bit16bitリバイバルが生まれ、そして独自発展した理由をまとめるとこうだ。

1・ビデオゲームが2Dから3Dへと決定的に変化し、8bit16bitの2Dは憧憬と共に強烈な意味を放ちやすいデザインと見立てられた。

 

2・ビデオゲームの容量が拡大されるにつれて過去アーカイブとして含まれるようになったことはじめ、ビデオゲームカルチャーがメジャー化していくにあたって過去のアーカイブが行われるようになったおかげ

 

3・インディーズ界隈での8bit16bitは、実際の製作者個人の実体験ゆえというのもあるし、また少人数の規模で強い印象を与えるデザインのフォーマットとして使われるためではないか? 

 ここまで検証と確証の作業がほとんど行われてない、結局は個人の雑感ですスマンというアナウンスをしておくとして、知識がなくてわかっていないのは「すでにファミコンの時代からもうアタリなどビデオゲーム初期のリバイバルは起きていたのか?」とか「そうでなくても今のHD化のような再調整再発売はあったのか?」ということから、グラフィック面の対としてサウンド面でのチップチューンの発展とは?といった部分にまで至る。

 8bitリバイバルから独自発展していった流れは、デジタルの中でも特に整数的・幾何的デザインと混ざり合ったという点も大きいのではないか?もはやチップチューンの響きは少し前にYMCKが提示していたような懐かしさを越えて、現在はクラブミュージックやエレクトロニカとさらに混ざり合い、過去のファミコンサウンドのどこにも似ていなくなっているし、最近「Risk of rain」を始め、そのほかに「Fez」などを見てもそのグラフィックは8bit16bit的な意匠でありながら、現在のベクターグラフィックス的なデザインと混ざり合った意識でデザインされているかに見え、結果過去の8bit16bitのどこにも似てはいない。

 現在の8bit16bitの意匠は過去を懐かしむ段階をはるかに超え、過去のどこにも似ていない。強烈な独自発展を遂げ、AAAタイトルに見られるようなグラフィックスからサウンドはじめ純粋な発展を続ける側面へのカウンターとしての地位を築き上げているかのようだ。
 

4件のコメント

  1. 2D3D間の変貌が大テーマになってしまっていることが、プレステセガサタ64世代から変わっていないというのは、ある意味20年たってもゲームの進歩がなかなか進んでいないということでしょうかね。まぁユーザー側もいまだに「ステージが横スクロールから奥スクロールに変わる演出」にとても満足しているので伝統芸みたいなものになりつつあるのかもしれないですね。
    8bit16bitが独自ジャンルに発達してきたのは、やっぱり開発が自由なんですかね?開発者じゃないから分かりませんが。さらに発達しつづければ「8bitゲームのAAAタイトルの開発費高騰」なんておかしなことが起こったりしてw
    個人的にはマインクラフトみたいなローポリのリバイバルがもっと出てきてもいいと思います。
    そろそろプレステ時代のグラフィックを暗黒時代では無く、懐古として捕らえられる月日は経ったと思うのですが、実際には多くのゲームファンにとってはまだまだ時間が足りないみたいですね。
    「XI」や「IQ」なんかトータルデザイン的にもイケてると思うんですが。。。
    「ジャンピングフラッシュ」とかもローポリをデザインとして活かしていたし。。。
    そのうちハイポリゴンと8bit16bitへのアンチテーゼとしてローポリに日が当たる日を楽しみにしてます

    いいね

  2. >sabooさん
     2D3Dネタがテーマ、はビデオゲームの基礎水準が
    技術的にもアーカイブ的にも広まり、そしてビデオゲーム制作が少数でも可能という
    様々な環境の水準が上がったゆえに、基本的な視座が上がったゆえに起きたと見てます。
     まあでもローポリリバイバルというのもやっぱあるっちゃあると思われ、
    最近スクエニの「FF4・月の帰還」スマホ版とか「ブレイブリーデフォルト」あたりは
    8bitスクウェアと初期プレステ・サターン時代両取りによる古き良き感はあると思います。
    (意識的に構造書き換えるというそれではないですが・・・RPGには2D3D問題はそこまで大きくないのです)

    いいね

  3. 8bit系の意匠が活用されるようになったのは、技術力の進歩で2Dのものなら何でも表示できる時代になって、「ゲームらしい」表現として8bit時代の特異性に注目が集まったせいじゃないかと思います(なんかEAbaseさんの話を別の言い方にしてるだけのような気も)。
    荒いピクセル画やベクタースキャンの線画って、昔のゲーム以外ではたぶん滅多に目にしないような不思議なもので、イラストや実写を2DCGとして取り入れるのが余裕(実際やってるゲームもある)の時代になっても、ある意味見劣りしない・・・と思う人が多いんでしょう。
    その辺3Dは、生ポリゴンの時代や、一部の特異なデザインを採用したゲーム以外では、造形をリアルに近づける方で進んできたので、元々記号的なピクセルアートとは違って、発展途上な印象が拭えないんじゃないでしょうか。全般的に完全個人の印象ですけどね・・・
    まあ自分的には、今のインディー界隈でのピクセルアートの使われ方のほとんどは、ちょっとごちゃごちゃしてて好みではなかったりします(ドット絵は画面全体も含めての簡潔さが魅力だと思うので)。やっぱりこう、80年代のUPLやテーカン、ユニバーサル系統のドット絵の輝かしさとか、ナムコの機能美あふれるドット絵から持ってくるものは多い・・・って記事とぜんぜん関係ない話でしたすみません。

    いいね

  4. >Quaint さん
    このエントリ、いま読み返すと荒かったりするのですが
    (これは次回の特殊任天堂論でフォローしたつもりでしたがこっちも荒いですね…)
    映画やゲーム、音楽やファッションなどそれぞれが
    技術をはじめ周辺の環境やらが完全に書き変わると、
    書き換わる前の技術ってのが一つの味わいになるのでは、という
    ファッションやデザインのリバイバル的な部分を
    ゲームはどう扱ってるのかな、という記事でした。
    80年代の「あの時代の技術と環境の限界、または機能的にデザイン」っていうピクセルアートと
    現在の高い技術環境から「あの時代にしかない味わい・または再構築」でリバイバルし、
    ベクターグラフィックスだとかと繋げるそれは解釈が違う入り方をしてるといえ、
    ちょっと違うかもな…という印象を抱かれるのかもしれません。
    ただ、作品によっては再構築リバイバルだけでなく
    機能的なデザインでピクセルを利用しているケースは少なくはないかなと
    思っています。

    いいね

コメントを残す