カメラ  そしてあなたの目

 ビデオゲームが映画に近づくとかなんとかって話は今どれだけ掘り下げられているのか?なんて、意味ありげな一文を書きながらどうでもいい話になる。「witcher3」をやりながらボンヤリ思ったことの書き散らしだ。

 「ゼノブレイドクロス」「Batman: Arkham knight 」それから「MGSV」「Fallout4」と2015年オープンワールド世界大戦とペイン頭痛を起こしそうな比喩を使うほかないくらい、精微なグラフィックの広大な世界を提示するAAAタイトルが登場している。

 その中で「witcher3」はまるで、18世紀から19世紀のヨーロッパの油彩画の如き質感のグラフィックを持っている。陰鬱な作品世界にふさわしいそれだ。起動するたびに感激する。だが、ただひとつその感激が冷める瞬間がある。それは本当にささやかなことなのだが…

 雨が降る。すると画面に水滴が残る。ただこれだけのことだ。もしかしたら当たり前のことで、本当に大したことのない話かもしれない。しかしオレには当たり前のことではなく、それどころか長らく続く映画とゲームが近づくことの歪なそれを強く感じてしまう。これは「witcher3」だけで思ったわけではなく、もっと古くPS2の「メタルギアソリッド2」から、「GTA:VICE CITY」からずっと感じていることだ。その違和感とはなにかというと…

 


カメラ

  ディスプレイ上の視覚が映画の、もしくはビデオカメラのものであることをわざわざ示しているからだ。ここで言ってることは3Dビデオゲームでディスプレイ上にグラフィックを映すカメラってシステムの話じゃない。

わざわざ雨が降れば水滴が画面に付いたりと演出することで、このゲームの視覚というのは「映画やテレビカメラのものですよ」→「そして生々しい現場そのものの映像ですよ」という目的があるのだと思う。そこにゲームが映画を目指すことで生まれる、キッチュな感じを観てしまう。

 「witcher3」にそんな「画面に水滴」があるのは、3人称視点のオープンワールドの現場感を担保するのに結局それやっちゃうか…というほんとに些細なガッカリではある。ゲーム画面はフィジカルなカメラを模した視覚ではなく、ヨーロッパの油彩画がそのまま視覚となっていると思っていた。それは物理的なカメラを通して映像にすることのない、デジタルなゲームだから出来るそれだと思った。だがある種の映画的な生々しさ、現場的なというそれから手を切ることはできていないようだ。

 

 当の映画にしたって長年、スクリーン上に映されるカメラの存在を感じさせないようにするのが普通だったという。だが歴史が進み、むしろカメラの存在を示す映像表現が生々しい現場そのものに立ち会っているというリアリズムを示すようになったという。

 ”レンズ・フレアは、60年代までのハリウッド映画においては「カメラで撮ったこと、作りものであることをバラしてしまう失敗」であり、完成した映画には使われなかった。そもそもハリウッドではほとんどセット撮影だったので、レンズ・フレアが映る事態はめったになかったが。

 ところが59年頃からフランスで始まったヌーヴェル・ヴァーグ映画では、レンズ・フレアが映ったフィルムを平気で使った。逆にそのほうがリアルであると。”『ウルトラマン』とレンズ・フレア(町山智浩)

 そう、徹底したスタジオ撮影で作り物として撮るということよりも、手持ちカメラぐらぐらであるとかレンズフレア、場合によってはカメラのレンズそのものに付着する泥や水(めったにないが)さえも映画の現場そのものの生々しさを示す手法になった。

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 それがゲームにも転用されたおかげで、そこに現場の生々しさ表現する一つになったのではないか。しかもこれは、FFみたいなタイプのプリレンダ&映画的なゲームではなく、アクションなどリアルタイムレンダリングによるゲームで現場っぽさを表すために、たびたび現れるのだ。

 本来デジタルなゲームには意味が無いにも関わらず「画面に水滴が付く」みたいに現実のカメラの存在を示唆し、それによって生々しいものであると示す構図はメタルギアなどで見られた。それはムービーが多用されることの映画性より、ゲームと映画の関係の根は深い。

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 ここまで書き散らしながら「そういやリアルタイムレンダリングの3D空間を駆け巡る傑作・マリオ64のジュゲムの持つテレビカメラって、時を経てから感じるちょっとしたパロディだな…」と思い返したのだった。宮本茂は神。マリオは伝説。枯れた技術の水平思考。


あなたの目

 やっぱゲームでの作品世界が生々しい現場そのものである、ということを示す代表的な視覚は「このゲーム画面はあなたの目線である」FPSだ。

 ディスプレイ上に映るグラフィックはあなたの目を模している。フラググレネードが炸裂し、目の前は光に包まれ前は見えない。血管の赤い線が見える。もしくは、銃弾を受ける。暴行を受ける。朦朧とし、目の前の風景から色が失われていくだろう。

 しかし、没入感を生むためにUIを簡略化したはずのFPSでも、先のビデオカメラ風味のリアリズムは侵入してくる。あなたの目であるはずのその画面は、ゲームのルールと筋を合わせるために敵弾を受けると血しぶきが画面に付着し、その量でどれくらいのダメージを受けているのかを示すタイプのものもしばしばみられるようになった。

 ゲームクオリティを上げるための演出が、逆に倒錯した事例だ。あなたの目であるはずのものが、ゲームの視覚がテレビカメラの存在である「画面に水滴」みたいな意匠に繋がり、さらに「ゲームのルールやシステム」を視覚的にわかりやすく提示するという。

 ゲームにおける没入感、って言葉はバズワードなきらいがあるけれども、どうあれプレイヤーにゲームメカニクスを一時忘れさせ、作品世界に生々しい実感を感じさせるための趣向は多々ある。その中でも最大の影響は映画側からの映像のリアリティや現場性を感じさせる方法論なのだと思う。

 映画の方法とゲームプレイの方法を溶け合わせることが洗練されたいまでこそ、「ムービーはゲームに必要か」「QTEは」みたいな議論はあまり見なくなってきたと思う。しかし、細かいところで映画的なる影響や、映画的な没入感を目指す手法は続いている。

 ことは没入感とはどういうことか?ゲームの没入とは映画のそれに当てはめていいものなの?それとも競技性の部分で競り合うことがそれだというべきなの?そして現代の映画性とゲームのミックスを持って、映画的な没入とゲーム的な没入の両方は実現したのか?それとも物語の問題か?とか話は四散する。

 まあなんだ、ダラダラ長引いた書き散らしを一言でまとめよう。画面に水滴付いたり血しぶき付いたりが嫌いなんだよ。

12件のコメント

  1.  「カメラに付着する泥」というのを私が最初に見たのは、ドリームキャストで出てたスーパースピードレーシングやらいう安いF1レースゲームでしたが、小学生の時分でもなんか変なことするなあと思ったものでした。あ、でもあれはヘルメットについた泥ってことだったのかも…。
     個人的に、00年代以来の西洋コンピューターゲームの没入感指向って、なんだか逃避的すぎる感じがして好きになれないんですが(まあ細かくいえばモノによりますけど)、このカメラの話を読むに、ナウはもうすこし倒錯したことになってるみたいですな。

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  2. 水滴表現はメトロイドプライムで見た時は感動しました。
    ああいう主人公がバイザーをつけているタイプのFPSだと効果的なんですがなんでもかんでもだとね。

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  3. カメラの存在が露骨に演出に取り入れられていた作品と言えば、「ケイン&リンチ2:ドッグデイズ」が思い出されました。
    ダメージ表現がブロックノイズだったり、スプリントするとカメラが激しく揺れ動いたりで臨場感や生々しさがありましたが、カメラ自体が物語には存在しない設定(主人公の妄想?)で中途半端だった上、前作で印象的だった演出(瀕死の際の幻聴、幻覚を見て狂乱する主人公等)が軒並み使えなくなってしまうなど一長一短といった印象でした。

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  4. >Quaintさん
    没入傾向を逃避的ってのは面白いですね。 わからなくない感じが。
    没入の目的地がやっぱ映画に求めてるんじゃないかなというのが
    現代型のゲームの映画性のイヤさといいますか
    >(命名)サマーナイト盆栽さん
    メトロ2033はほんとうにすごかったですよ マスクの着脱、呼吸の音…
    >Garmecyanちゃん
    3人称でのカメラだと本当に映画のカメラ視点である、ということを示そうとする
    ケースがおおいですね 
    ケイン&リンチは未プレイなんですが「映画のカメラである」ということ以外の
    視覚を提示していようとしていたと見ていいんでしょうか

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  5. 手ブレや水滴といったリアルさの記号を安易に取り入れるのはCG業界に古くから蔓延る病気なんだと思います。
    まだまだCG技術がしょぼかった頃、CGである利点を生かしたダイナミックなカメラ演出はいかにもCGぽいという印象を残しました。
    そのカウンターとしてカメラ演出に人力っぽいノイズを加える事でお手軽にリアルさを獲得できたのですが、その成功体験に未だ引きずられているのかもしれません。
    あのスターウォーズですらEP2のクライマックスの合戦シーンで「ホームビデオで目撃してしまった」かのようなカメラ演出がありました。神話的世界観が台無しです。
    初投稿&長文失礼しました。

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  6. たしかに三人称視点なのに水滴がつくとジュゲムのカメラで観てるみたいですね。
    でもドローンの遠隔操作のような現実がカメラ越し、という勝手な解釈で受け入れてます

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  7. めずらしくコメント多! ふしぎです
    >wavveさん
    CG映像が当初目指すのはやっぱ実写映画のそれで、
    ある意味常にリアリズム路線の最大パラメーターに設定してるのは変わらないですね
    写実的にすることの最大のモデルがそれなんで
    映画のカメラの存在が設定されるのもそういうことなんでしょうか。
    >sabooさん
    ドローンの遠隔操作!それいいですね!誰か採用しましょう、
    「信頼できない語り手」ならぬ「信頼できないカメラ」といいますか
    (グラスホッパーの「ミシガン」はまじで信頼できないカメラネタやってたなあ)

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  8. 水滴なんかの表現を否定はしないけどウィッチャー3の場合は
    特に考えはないけど手癖でつけちゃいましたみたいな安易な感じが嫌い
    少なくともウィッチャー3には合わないし必要ない演出だったと思う

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  9. こういう表現ってウィッチャー3みたいなサードパーソンでやると主人公の視点と自分の視点の差を自覚させられて逆に冷める、というのが直感的な意見なんだが、実際はそこまで意識しない
    映画でも登場人物が部屋で1人でいるシーンとかを違和感なく受け入れられる(カメラの存在を無意識で除外できる)のが昔から不思議だった
    それと根っこでは同じ問題だなと思う
    そもそも没入感と一人称感(当事者感)は別のものだしね
    FPSでのUDレスが必ずしも有効でなかったように

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  10. (命名)酢昆布転売小僧さん
     映画的な…の残滓はええかなとおもいますよね
    (命名)アゴ割れ病さん
     AAAタイトルにて”画面に水滴” ”レンズフレア”みたいなのは
    もう実際の映画も含めて膨大にあるし、
    プレイヤーもその慣習に染まってるから、違和感は少ないものなんです。
     ただ、そういうリアリズムのあるゲームグラフィックっていうものの指針で
    witcher3の場合ヨーロッパの新古典主義の油画的だ、っていうのが大きかったので、
    映画的なリアリズム以外の、リアリズムの置き方ないかな~とおもったのでした。
    (ただまあ、「カメラの視覚を通さない、油画ならではの視覚を」つっても
    古くフェルメールからエントリに上げてるアングルなど
    リアリズムのある絵画を制作するために写真機(もしくはカメラ的な機器)を通していた、
    みたいな話もあるわけで、
    「現実をキャンパスにそのまま映す」とテクノロジーの追及には
    カメラの目は免れない面はあるかもな・・・話ズレてきてっかな・・・)

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