「Everybody’s gone to rapture」とwalking simulatorのデザインの前進

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 最初はインフルエンザなのだと思われていた。”それ”は観測所から電線を通じ、拡大した。電話を通じて農村の人間たちの中に入り込んだ。鉄道は止まり、村は閉鎖された。その奇妙な事態の顛末を見つめるプレイヤーにもまた、コントローラーを握りしめる手を通して”それ”は入り込む。


 「dear esther」のchinise roomの新作「Everybody’s gone to rapture」は、2週ほどクリアして振り返ってみても「インディーならでは」「実験的な」という形容には当てはまらない。また、すでに一大ジャンルとなっている、主観視点で美しい風景や幻想的な風景、精神世界を歩くwalking simulatorというジャンルで観た場合でもあまり前例がない。

 というのも「Everybody’s gone to rapture」のデザインの完成度が同ジャンルの中で突出しているからだ。エモーショナルな体験、アーティスティックなグラフィックを主とするこのジャンルでは、基本的なレベルデザインは比較的荒いままであったり、内省的なことの多い物語で曖昧にされたままのシナリオであることがほとんどだからだ。

 開始当初オレはそプレイヤーは自由に探索できるがほったらかしにしないよううまく誘導し、要所に配置された残留思念によるシーンの挿入などなどレベルデザインの完成度の高さにむしろ戸惑ってしまった。やはり「dear esther」の先入観があったためだ。

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 「dear esther」は今考えても特異な体験だった。陰鬱さのある風景、内省を反映したシークエンス、そしてゲームプレイごとに内容を変えるモノローグの数々。そして語られる内容は事実関係も時系列もはっきりせず、暗喩に満ちている言葉ばかりだ。プレイヤーは幾度も周回を重ねながら、手探りで何が真相なのかを探る。でも実態は分からず、曖昧になっている。

 それはwalking simulatorでは珍しくない、美しい風景とモノローグの組み合わせというトレンドを作った作品に違いない。だけどその次の作品に期待したのは、むしろプレイごとに内容を変えるモノローグみたいな、不確定なによる物語の構成だったからだ。変な話、ローグライクの構造を持ったwalking simulatorって考えてくれたらいいだろうか。

 海外のインディーゲームやフリーゲームが投稿されているitch.ioなどを観てもwalking simulatorは数多く投稿されている。競技性や操作のレスポンスを作る手間が省けると言うのもあるのか、技術力が少なくとも製作しやすいためかもしれない。その出来はアーティスティックなスタイルの一点突破で、不確定要素やラフな作りをものともしない面白さに溢れていることは少なくない。

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 「Everybody’s gone to rapture」「dear esther」で提示された表向きの美しい風景・そしてモノローグの部分が洗練されている。あまりこのジャンルに慣れていなければ、「アートすぎる」「プレイヤーを突き放している」と感じるかもしれない。

  だが探索して掴める村の人間関係であるとか、事態が勃発した後の鼻血を吹いた後や鳥の死骸、ラジオの情報を集めた中で見えてくる全貌はとても具体的なものだ。時系列も整理されている。(”それ”は生真面目だよ)。そこには暗喩や曖昧さはない。事態をひきおこした”それ”が何者であるのかということくらいだが、これも牧師や研究者たちの観点、讃美歌のようなBGMと合わせ、一連のゲームプレイの中でうっすらと何なのかを感じられるようになっている。

 ゲームプレイ、そしてシナリオの中に曖昧さや不確定要素を混ぜ込まないように徹底している。オレがwalking simulatorからある種の美点として受け取ってきたのは、表現するエモーションやコンセプト一点を貫くことで、ある程度のラフさや不確定なゲームプレイを許容することだった。そのラフさがまず無いことが戸惑った要因かもしれない。

 でもその先達がいるのも関係あるかもしれない。競技性を排し、コンセプチュアルなwalking simulatorを「写実寄りの美しい風景と、主人公のものだろうモノローグ」という表層的な部分を伸ばし、レベルデザインのラフな部分を修正した極めてわかりやすく、このジャンルの難解さを味わえるようにした先達が「The Vanishing of Ethan Carter」ではないだろうか。

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 「The Vanishing of Ethan Carter」はもともと「painkiller」「balletstorm」そしてあの「gears of war:Judgment」まで制作していたFPS・TPSを制作していたプロフェッショナル・people can flyを創設したメンバーの新会社によって製作されている。

 つまり、アーティスティックかコンセプトかの一転突破でレベルデザインに難があることが少なくないwalking simulatorに対して、FPSで培ってきたプレイヤーを誘導するレベルデザインや写実的なグラフィックスによってこのジャンルにありがちなラフさを無くす方向でデザインしたわけだ。自由な探索が提示されながら探索ポイントへ誘導する巧みさ、ひとつひとつや、冒頭のトンネルを通るシークエンスを後で韻をふむようにアーチをくぐる所やポータルを開けることで過去を調べるなどなど、とても上手い。

 だけどそれは皮肉なことだ。walking simulatorが広まる契機に「half-life2」「farcry」など既存FPSのmodを作る流れがあったことは良く聞く。その中で、いかに戦略を尽くして敵と戦うみたいな競技性を排した体験、写実的なだけが美ではないグラフィックなどなどの実験や探求があった。

 
 なのにその実験性よりもまず認識しやすいグラフィックスやレベルデザインの方向で制御しなおすと言うことは、このジャンルで追及されていた可能性の薄い所だけを伸ばしているようで、正直ゲームプレイ当初の「The Vanishing of Ethan Carter」とこの「Everybody’s gone to rapture」に感じていた。だが今考えると、それは違うかもしれない。

 コンセプチュアルと完成度の高さはほとんどの場合両立しない。メタクリティックやアマゾンレビューは後者のみの触感にて高い点がつけられるものだ。だがジャンルの歴史も踏まえた上でジャンルを崩壊させ、再構成してしまう試みである前者は重要ながら、なかなか可視化され辛い。一見稚拙さと紙一重なところはあるからだ(極端な例えだと、ピカソの絵は子供と絵と区別がなんとやら…みたいな)。

 
 コンセプチュアルなビデオゲームデベロッパーtales of talesの「Sunset」と比べると、やはり完成度で差がある。この作品は比較的商業的な結果を目指したものの、そのデザインは「ニッチなゲームプレイだ」と海外ゲームサイトに評されるほどやはりゲームプレイのテンポやプレイヤーへのレスポンスや誘導が弱かったことは否めない。

 walking simulatorはどうあれ「The Vanishing of Ethan Carter」、それからこのエントリで書ききれなかったけど「Gone Home」 そして「Everybody’s gone to rapture」によって次のレベルに上がった。それは「インディーならではのコンセプチュアルな試み」ではなく、さらにその上の「AAAタイトルにも互換の効くデザイン」という点のレベルである。この3作のデザインを解析すればおそらく今後商業レベルで成功する可能性が高まるwalking simulator制作の教本になりえると思う。

 今後もコンセプチュアルな、アーティスティックなwalking simulatorはフリーゲームでもインディーでも出続けるだろう。しかしこの3作は乱雑なまま放置されていたデザインを大部分整理させたという意味が大きい。

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