2015年の日本産オープンワールド・9つの奇妙なシンクロより生まれる狂気

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今年鳴り物入りでリリースされ、賛否が分かれる内容となった日本産のオープンワールド「MGSV」「ゼノブレイドクロス」。両作は長い人気シリーズの初の試みということで注目が集まっていた。

小島秀夫と高橋哲哉は、過去に同じ制作会社にいたとか、どこかで対談をしたりといったような目立った関係は無い。ゲームファンの間でも二人を並べて語ったりすることはまずないろう。だが長いキャリアの中大きくスタンスを変えただろう両者の新作は、奇妙なくらい内容がシンクロしている。

ここからの書き散らしには両作の重大なネタバレが含まれている。なお「夏色ハイスクル★青春白書 ~転校初日のオレが幼馴染と再会したら報道部員にされていて激写少年の日々はスクープ大連発でイガイとモテモテなのに何故かマイメモリーはパンツ写真ばっかりという現実と向き合いながら考えるひと夏の島の学園生活と赤裸々な恋の行方。~」についてはいっさい言及していない。

 

1・リニアな進行で膨大なムービーを使用したストーリーテリングから、ノンリニアでゲームプレイの中から転じたこと

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これまでのMGSシリーズもゼノシリーズも、リニアな構成で膨大なムービーを載せることで、一方的にストーリーを進める形だった。

しかもシンプルに登場人物への感情移入を載せるような作りではない。デカい世界観から衒学的なセリフ、引用の数々などはじめ、限りない情報量で埋め尽くしてきた。

ところがオープンワールドを採用したことで、ストーリーテリングの手法も世界観の情報の与え方も大きく変わる。一本道ゆえに編み込まれたストーリーをプレイヤーに伝える形ではなくなり、プレイヤー自身が自由にミッションを選択していくノンリニアの形になっている。広大な土地を探索する形で世界観や状況を見出していく形になった。

2・にもかかわらず、ゲームプレイの中で一向に物語や世界観を感じにくいこと

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 ところが広大な土地でミッションを繰り返していても、探索を続けていても一向にこの世界がどうなっているのかが直観的に把握できない。

地球に似た惑星ミラは、そして星の周辺の異星人とのバランスはどうなっているのか、そうした背景がわからないままだ。ソ連兵ばかりが駐留する砂漠。中東で実在するイスラム反体制組織・ムジャヒディンなどから任務を依頼されていると言うが姿を観ることは無い。ほんとうにここはアフガニスタンそしてアフリカなのか。名前も何もない荒野で兵士たちをさらい続ける。テーマに「Race(人種)」と名付け、本作のテーマに言語と紛争があげられているにもかかわらず、ゲームプレイの中でそれは伝わらない。

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       主人公が一方的に語り続けるのを見ていたころのシリーズ

 彼らの作品史上「MGSV」「ゼノブレイドクロス」はこれまでのシリーズとほとんど真逆の構成だ。

諸海外のシューターやオープンワールドはムービーではなく、ゲームプレイの中で世界観や物語を伝える手法を恒常的に行っている。とはいっても、ステージ構成や環境から物語を作ると言うのも、リニアな構成のころはMGSもゼノシリーズ(特に「ゼノブレイド」)でもそれはかなりできていたことだ。この作品に関わらず日本産の他の作品だって少なからずできている。

だがノンリニア構成の今回は、これまでリニアでのストーリー構成が強すぎたせいなのか、ゲームプレイの中でプレイヤーに世界観を示唆させるという方法が弱い。(ほぼ)最初からどこへでも行けるという構成である地域で起きた痕跡を指し示すようなゲームプレイの中で サブクエストで世界観やストーリーの補完を行う手つきがいささかぎこちない。

 

3・諸海外のゲームデザインからの影響

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オープンワールドという基本をはじめ、ノンリニア構成やイベントシーンとゲームプレイの境界を出来る限り消すことなど、世界のAAAタイトルの潮流に合わせた形になっている。

作っている方は明言はしていないけど、「MGSV」「Far Cry」シリーズの影響が垣間見えるとよく言われるし、「ゼノブレイドクロス」はやはりMMORPGの構成をシングルRPGに転用したのをはじめ、BiowareのRPGらしき痕跡があると見える。

なによりも影響があるのは、これまでゲームの方がプレイヤーを引っ張って行く形だったのに対し、プレイヤーから意識的に動いてもらうことという形になろうとしていることだ。ただ、これも「witcher3」などと比べるとあまり上手くいっていない。

だけどそんなスタンスの変更は、後に凄まじい結末に繋がる。

4・過去シリーズの集大成のアートスタイルとゲームデザイン

 

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同時に過去のシリーズを想起させる要素や、アートスタイルの総決算的な内容である。

「MGSV」は過去のMGS体験のほとんどを想起させてくれる要素を持っている。サヘラントロプスは「MGS」のラストバトルを思い起こさせるし、マザーベースの構成はHEXで構成されていた「MGS2」のプラントを思い出こさせる。

アフガニスタンの砂漠やアンゴラの木々のなかでカモフラージュを使いながら侵入するのは「MGS3」を、そして拉致してきた兵士たちで構成されるというのはそのまま「MGS:PW」から引き継いだものだ。

「ゼノブレイドクロス」ではシリーズ最初の作品「ゼノギアス」からキャラクターデザインを務めていたデザイナーが復帰、そこに「ゼノサーガ」の宇宙船団をはじめとするメカニックデザインや衣装のデザイン、そこに「ゼノブレイド」で展開した広大なスケールの世界の描写、これまでシリーズの目玉だった巨大メカニックのバトルなど、過去のアートワークが結集した形になっている。

5・ゲームサイクルの中核にある、簡単なシミュレーションの要素

 

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「ゼノブレイドクロス」では採掘可能な場所にデータプローブを打ち込むことで資金や資源を獲得することができるようになっている。 「MGSV」では気絶させた兵士をフルトン回収することで、様々な兵科に配属させ武器開発や敵の情報を送ってくれたり、拠点のマザーベースを拡大できるようになったりする。

シミュレーションの要素が入ったオープンワールドということでは、「GTA」シリーズでも確かSan Andreasやvice city storyなどでほんのすこしシミュレーションゲームみたいな要素は入っているし、あとオレがやってないだけで上手くミックスされた作品は多いのかも知れない。

主になるゲームプレイの添え物で、あくまでエッセンスくらいの扱いなのだけど、意外にこのあたりを掘り下げることが化けるポイントにあるとは思う。未知の惑星の調査や、兵士の獲得はストーリーテリングの面で生かすことも出来たはずだ。

オープンワールド&シミュレーションはゲームサイクルを豊かにする可能性は大きいと思うので、いろんなとこが追及してほしいですね。

 

6・80年代ニューウェーブの引用

 

 

ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロによる、デヴィッド・ボウイの「世界を売った男」のカバーが冒頭から流れる「MGSV」。そのほかに数々の80年代を彩るニューウェーブの華やかで憂鬱な楽曲がカセットテープとして手に入る。小島秀夫が魂のバンドとツイートしているジョイ・ディヴィジョンの「love will tear us apart」など、80年代のイギリス、マンチェスタームーブメント前夜の重要なバンドも出てくる。

ゼノブレイドクロスでは同じくマンチェスタームーブメントの用語が出てくる。それは本編じゃなくて、公式サイトに掲載されている本編の前日譚の小説だ。それはアニメなどの脚本家・兵頭一歩が執筆している。そのタイトルが「24アワーハッピーピープル」。これは80年音楽のムーブメントを記録した映画、およびその時代に活躍したハッピーマンデーズの楽曲だ。須田剛一といい、あの世代の作り手にひっそり潜む80年代の影響とはなんでしょうか?

 

7・メルヴィルの小説「白鯨」の引用

 

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「MGSV」はビッグボスとプレイヤーとマザーベースの関係が船長のエイハブ、語り手のイシュメール、様々な境遇や人種が乗る捕鯨船ピークォド号に当てはめられる。「ゼノブレイドクロス」はまんま地球を脱出した移民船の名前に引用されているんだけど、その後のニューロサンゼルスにて多数の異種族が移住してくる点にも例えられなくもない。

19世紀の小説ながらシナリオ上の主人公たる船長エイハブ、語り手である”僕”のイシュメールからピークォド号に乗り込む多様な人種、そして実体の不明な白鯨モビィ・ディックなどなど、単なる冒険小説とはいいがたい暗喩に満ちた小説である。

クリアして振り返るにそれは、案外ビデオゲームとプレイヤーの関係の暗示にまで繋がっていると言えるかもしれない。こじつけですね。

 

8・シングルとマルチプレイヤーの境界を溶かそうとする痕跡

 

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「MGSV」「ゼノブレイドクロス」で両作が導入した大きな構成はオープンワールドだけではない。もうひとつある。マルチプレイヤーだ。(「MGS」シリーズは以前からあるけど)これがエッセンス程度ではなく作品の根源に関わっている。

両作が奇妙なのは、ゲームシステムやルールの世界で競技を行うように切り分けられたマルチプレイヤーモードに独立させた形ではなく、物語世界に関わるシングルプレイに関わる形となっていることだ。(「MGSV」は切り分けられたオンラインが別にあるが)

ただそれだけなら「watch_dogs」も行っていたことだ。あの作品はシカゴの街中に監視システムが構築されているのだが、様々なハッカーが跋扈し情報をかすめ取ろうとしている世界としてマルチプレイヤーの要素を絡めていた。ところが両作の場合は、あらぬ方向へと行く。

固定の主人公の存在するシングルプレイヤーと別に、マルチプレイヤー用にアバターを設定するゲームは多い。独立した物語世界と、基本的なゲームメカニクスとルールの世界で現実の他のプレイヤーとの対戦や協力に使うため切り分けられるのだ。

でも最近ではマルチプレイヤーの要素を混ぜ込んだままに、物語世界のテーマやコンセプトをどれだけ味あわせるかという試みが行われていると思う。

「MGSV」は舞台にあるアフガニスタンとアフリカの紛争から着想したであろう、報復と抑止力というテーマを他のプレイヤーのマザーベースに侵入するFOBに込めようとしている。 「ゼノブレイドクロス」は「実はプレイヤーのアバターは意識と記憶を移し替えたメカニックで、他のプレイヤーのアバターも時に協力してもらいつつ、全く別の場所にある本体を探す」というあらすじになっている。

物語世界の中でマルチプレイヤーを混ぜ込むなんて「風の旅ビト」くらいしか出来てないかもわからないし、これまでにそんなことがAAAタイトルで出来たケースがあるのかもわからない。

もともと両作のシリーズは固定の主人公による、シングルプレイでのリニアな物語を敷いていた。ところがノンリニアのオープンワールド、そして随所に入るマルチプレイヤーとアバターという構成を取ったとたんに、プレイヤーはシンプルに物語世界の中の固定の主人公を追う構図ではなくなる。しかも両作品ともそのシナリオや世界観から意図してそんな方向へプレイヤーを誘導しているのである。

そしてプレイヤーは結果的に物語世界とゲームシステム・ルールの世界が曖昧になった場に立たされる形になり、それどころか両作は恐るべき結末にたどり着くのである。


9・結末のビデオゲームとプレイヤーの関係そのものの提示・そして「プレイヤーとは何か」という狂気

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MGSシリーズとゼノシリーズがまったく真逆だろう試みを次々と行った結果、製作期間は長大化しストーリーの面では意図せぬ形でリリースされることになった。結果未完成という評が溢れた。しかし、結末で示唆されることはある意味であまりにも面白い。

世界的なAAAのデザイン、オープンワールドそしてマルチプレイヤーの要素を追いかけた結果、過去のシリーズとは真逆であるデザインになった。その反動のせいなのか、凄まじい転回が起きる。

両作とも100時間近くとも知れぬ膨大なプレイ時間の果てに、謎めいたストーリーは投げ出されたまま終わる。しかも、その結末がある意味ビデオゲームとプレイヤーの関係なんて根源的なところを示唆するかに見える。そんなのなんだか「新世紀エヴァンゲリオン」みたいな後味だ…

結末に至るにつれ示されるのは、メタフィクショナルな「スネークと思われていたがは実はあなただった」「アバターは実はメカであり本体は別のところから操作しているのだ、その本体を探すのだがなんと崩壊していた」という、あまりに歪んだゲームとプレイヤーの関係を示唆する舞台裏だ。それがオレは面白すぎるとしか思えない。

つまるところそれは狂気としか見えないから。自身と他人の境界がおかしくなってたみたいな話にしか見えないから。


 これまでのシリーズはリニアな構成で、スネークやシュルクといった一人の主人公の人生を追う形だった。しかし今回、ノンリニアの構成を取り、マルチプレイヤーの要素も大きく導入した。これまでの一人の人生を観賞するような一本道のゲームプレイではなく、プレイヤーが主体的にゲームプレイを選択できる構図にしたわけだ。

ところが、そんなプレイヤー自身が主体的になる構成は異常なことになってしまった。シングルプレイヤーの「プレイヤー=物語世界の主人公を観賞する立場」というのと、マルチプレイヤーの「プレイヤー=アバターを作りゲームメカニクスとルールの世界に関わる立場」というのがぐちゃぐちゃになっている。しかも、メインシナリオは望んでその異常さにプレイヤーを誘導する。

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例えば「witcher3」では固定の主人公ゲラルドであっても、プレイヤー自身が自由に進行を決められるし、物語の展開や解釈が委ねられているし多様だ。だが両シリーズの場合、これまで固定の主人公で構成していることは、すなわちプレイヤーを選択肢の無い固定の物語に縛っているということみたいだ。そこで両作はそこから解き放つため、プレイヤー自身で主体的に進行できる構成に変えた。固定の主人公から離れプレイヤー自身のアバターを設定した。

それだけならベゼスダRPGであたりまえのことなんだが、両作はマルチ混ざりのシングルだ。結果、シングルの物語世界とマルチのゲームメカニクスとルールの世界が混乱をきたし、プレイヤーは自分の操作する主人公が物語世界を生きるそれなのか、ゲームメカニクスの世界の中での便宜的なキャラクターの立場が曖昧になる。プレイヤーとは何者なのかが明確でなくなる。

こればかりはGTAもベゼスダRPGもBIOWEREからでは絶対に生まれない余韻だ。日本の作品であったとしても、最初からオープンワールドとして企画された作品だったならば生まれてない。

リニアで一方的なストーリーテリングを主にしてきた両シリーズが、ベクトルが真逆の海外のトレンドの方法を選んだからこそそこにたどり着いた。物語世界の主人公という立場と、ゲームシステムやルールを味わう際のプレイアブルキャラクターとしての便宜的なアバターの境界が曖昧にされる。その末に「プレイヤーとは何者か」というところに辿り付く。

こんなの最初からメタフィクションである「stanly prable」あたりでは導き出せない、日本と海外のゲームデザインの潮流が混ざり合った結果ではないか。そんなのを喜ぶのはオーソドックスなことではない。賛否が分かれるのそうだろう(単純にシナリオが足りていないし)。ただの作品の稚拙さといっても否定も出来ない。しかし日本のAAAタイトルのデザインの記録的な事象として記憶しておきたい。

 

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3件のコメント

  1. ダークソウルみたいにシングルとマルチがシームレスな作品はもっと増えて欲しいですね
    切り分けられてるとどうも競技臭くって

    いいね

  2. >tansanさん
    逆になんで切り分けられるとこんな競技臭くなるんでしょうね?
    UBIのdivisionとか、おそらくマルチプレイヤーの中で
    世界観や物語を感じさせようとしてるのかなとか思ってるんですが

    いいね

  3. 最初の時は当時ごっちゃに見ていたから
    「ゲーム体験を薄くしてプレイヤーをゲーム世界から突き放す事が
    面白いなんて普通の感情じゃない」という感想を抱いていた。

    いいね

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