ビートたけしが桐生一馬の幻想を殺す

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桐生一馬は『龍が如く』の世界では伝説の極道として長い年月を重ねている設定だ。しかし、プレイヤーである自分の目線からは年月による加齢なんてまったく見えないし描かれない。マリオやソニックみたいなあくまで記号的な存在と思う。最終章である6では48歳ということらしいが年齢に意味があるように思えない。加齢を描ききれていないのである。そこに現実で壮絶な経歴を辿ってきたビートたけしが立ちふさがることでいったい何が起こったか?

『龍が如く』シリーズは多数の俳優や芸能人・スポーツ選手をフェイスキャプチャーして採用しているということをちょっとした豪華演出とかそんなところに金をつかうなみたいな話が出てくるけども、広く見てみれば『LAノワール』や『クオンタム・ブレイク』、チョウ・ユンファを起用した『ストラングルホールド』、さらには小島秀夫の新作ではマッツ・ミケルセンが主演するなどなど、実際の俳優の存在感をビデオゲームで活かす流れがある。その意味で日本国内でもっともそこを切り開いている唯一のシリーズであると言える。

『龍が如く』シリーズでは初期こそは俳優や芸能人を声優で起用するまでだったのだが、シリーズを重ねるにつれて遠藤憲一など実力ある俳優の起用から、プレイアブルキャラクターに引退をすることになっちゃった成宮寛貴などを起用しつつ、段々と哀川翔、竹内力、小沢仁志といったVシネマのトップが起用。実際、Vシネマが勃興してゆく80年代末を舞台にした『龍が如く0』で竹内や小沢が存在感を示すというのはその大味さとも相まってハマっている。

では最新作『6』ではどうかというと、宮迫博之から藤原竜也、そして小栗旬、真木よう子、大森南朋と全員が単体で主演を張れる俳優たちが採用されている。ところが彼らの採用は前作のような『龍が如く』の作品世界を構築していく方向じゃない。それぞれが作品世界からはみ出てしまうぎりぎりのところにある。

その究極がビートたけしだ。一見現代ヤクザ映画のトップ『アウトレイジ』のとの無邪気なコラボに見えるが、『龍が如く』の世界に登場したたけしは不気味に均衡を突き崩していく。もちろんこの後「続きから」では『龍が如く6』のねたばれだらけだ。

多数の弟子を抱えながらバイク事故で死にかけたり、暴力団とのナイーブな関係も取り沙汰されたりなどなど芸能人として鮮烈な経歴のほか、監督した『その男、凶暴につき』から『ソナチネ』『HANA-BI』で見せる唐突な暴力とその果ての自殺や死で終わる映画をひっくるめて、ビートたけしが現在までに重ねてきたコマネチとかピコピコハンマーで突っ込んだりしてる火薬田ドンのイメージと裏腹にある、唐突な暴力と死のゾワゾワするイメージは『龍が如く6』でかなりの部分再現されている。

実際、宮迫演じる南雲や小栗旬演じる染谷がかなり作品世界を構築する演技を見せている一方、本作でのたけし演じる広瀬は登場回数はさほど多くはない。物語の裏側で動く人物で、初対面こそとてもたけし的な煙にまくようなセリフを喋ったりする穏やかなおっちゃんという形なのだが、だんだんと裏で遥やハルトに関わっていることが発覚していく。やがて中国マフィアのボスと真正面から向かい会うようなきな臭いシーンがあらわれてゆく。

ここで印象深いのは、作品世界のなかの広瀬というキャラクターの説得力がビートたけしそのものの存在感からきていることだ。極端な話、南雲や染谷は宮迫や小栗じゃなくても代替できるけど、広瀬はたけし抜きには成立しない。製作チームは存在を活かそうと最大限に配慮していると思う。

ビートたけしそのものの存在が不気味に暗躍し、ついに桐生一馬と真正面から対峙し、闘うことになる。このシークエンスはあまりにも多くの示唆を含んでいる。最初から特定のモデルを持たず、10年間を記号的な「伝説の極道」というキャラクターの枠内から逸脱できない桐生一馬と、芸能の中でも映画の中でも壮絶な経験を重ねたビートたけしがほとんどそのままのイメージで向かい合う。

そこで起きたのは存在の逆転である。広瀬は桐生に「どけっつってんだよ、この野郎」と吠える。監督作品で何度も見てきた圧倒的なシーンだ。では桐生がどう返すのかというと「じゃあ…俺を倒していくんだな」……なんてセリフだ、主人公側とは思えない。その瞬間、伝説の極道には何の説得力もない、結局作り物の小物のように映ってしまうのである。それはフィクションの約束事の世界の中に現実的な冷たい厳しさを吹き込むような、ある意味では「ウォッチメン」であるとか、「パトレイバー2」のようなアプローチが、おそらく意図しない形で実現されている。

桐生との闘いのあと、監督作品のように最後広瀬は撃たれて死ぬ。たけし映画であれば、死は作品の終わりなのだが、ある意味で『龍が如く6』が革新的な点はたけし死後の世界を生きることが可能な点である。広瀬の死後のシークエンスは『アウトレイジ』とその後の遺影は『たけしの挑戦状』のゲームオーバーの二つを同時にリスペクトした形ですごい。

あの唐突な暴力と死、圧力が消えた後の世界、それはおそらくテレビの世界でも邦画の世界でも起こることだろう。小物たちによるご都合の展開やゆるい展開、説得力の無い超展開に歯止めが効かなくなるのだ。海から『サクラ大戦』のように巨大戦艦が浮かび上がったり、武装ヘリが何機も襲い掛かってきたり、とくに伏線もなくヒロインが人質にされたりする。終盤までに積み上げてきた緊張感は、たけしの死とともに崩壊する。「嘘だろ…こんなやつと最後の闘いなんて…」でたらめな展開の先にある小物の黒幕、それはたけし死後の世界を予言しているかのようだ……

シリーズを重ねて時間が経過しても、キャラクターは記号的なイメージに固まるばかりで加齢を描写することはできない。とくにヒロインの遥は無残で、初代から現在の10年、女の子が9歳から20歳になるなんてとんでもない変化なのに、初登場時9歳のキャラクターから一歩も出ないまま、母親になってしまった。(実際、6では遥の描写が極端に少なく何を考えているのか、今回どういう性格になっているのかがまったくわからない)

『サマーレッスン』で女の子らしい部屋を作ろうとしても「女の子の部屋をみたことがありません」とデザイナーが嘆くゲーム業界、9歳から20歳になるまでのパーソナリティーの変化を忠実に書ける人材がいるとは全く考えられない。もしかしたら小島秀夫はスネークを『4』で年老いさせたり、かなり意識しているのかもしれない。でもやっぱりうまくいってはいない。(3DCGのゲームの世界で)俳優が登場することの最大のメリットは、どうフォトリアルだとかグラフィックを突き詰めるということでもなく、記号的なデザインを突き崩し、現実で歳を重ねてきた存在感をぶち込むことである。

これからも俳優はAAAタイトルの世界で登場し、現実の演技で培ってきた存在感をビデオゲームで活かす形は増えてゆくだろう。『龍が如く』シリーズにしても、今後は渡辺謙や浅野忠信が出てきてもおかしくないくらいだ。しかし『6』におけるたけしの存在は飛びぬけており、『龍が如く』のアイデンティティを崩壊させるギリギリのところで死ぬのである。

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1件のコメント

  1. こんばんは。 キャラクターの加齢による変化は確かにむずかしい問題ですね。「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」でも指摘されていたように、ただでさえ日本のゲーム、アニメ(ラノベ)のキャラは子供と大人の書き分けが倒錯しているところがありますから。(すこしづつよくなってるようにも思えますが)

    しかし作ってる側もプレイする側も、桐生一馬のようにテンプレ化された性格や台詞を作りたいし見たいという欲望があるので一概にそれが悪いとも言えないところが・・・うーん。

    厳しい言い方だと、やはりクリエイター達の人生経験や、人生に対する考え方の貧しさに原因があると考えたほうが良いのでしょうか。
    宮崎駿が言うように人間観察が重要なのか。または良い映画やドキュメンタリーを見るようにもっと推奨するべきなのか、うーん。

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