国道140号線DRIVING SIMULATOR

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かなり前にちょっとした休みが取れた時に昔からの友人と埼玉県の秩父にある三峰神社に車で行った。国道140号線に入り、しばらく運転していくと本当に景色が山と木々というとてもシンプルなものになっていくのもあって、いろいろ会話をする。話題が途切れればみんな静かに窓の外の風景を眺めていたりする。

ドライブの最中というのは後になって思い出せないような本当にしょうもない話しかしない。よく考えるとドラマや映画なんかでやけに重要な話をするシークエンスにどこかしらの車中でなんてありふれているけど現実にはあまりないわけで、考えてみればタランティーノの映画がとくに伏線にも繋がらないような無意味な会話をあえて入れるというのは映画ではびっくりすることなんだけど、現実では毎日あたりまえに出くわしている。

映画はおおよそ90-180分くらいの尺の中で筋書きをまとめなきゃならないわけからほとんどの瞬間に意味があるからドラマに関係する重要な会話しかないけど、現実は映画の何十万倍の時間の中にあるから同じくらい無意味な会話で時間を埋めていることになる。タランティーノの異質さと現実の異質さが入れ替わる時とはまさに主要なドラマに絡まない無意味な会話が行われるときだ。時間のない映画が無意味な会話をすることはまずなく、時間が溢れている現実で(学生くらいの時ならさらに)重要な会話をましてや友人と、旅行しているときにすることもまずないからだ。

神社にいく前に昼食を取ろうということで、近くで立ち並んでいる定食屋に寄る。駅に近いところなので、電車で三峰神社に向かう人々に向けてお土産も一緒に販売しているようなところだった。店に入ってメニューをみているとなぜか60代くらいの店員のおばあさんが自分に知らない名前で話しかけてくるので、びっくりしてどういうことなのか話を聞くと自分が親族の誰だかに似ていたとか。そんな似た親族が三峰に帰省したときには自分の店を手伝わせているという話を聞きながらご飯が出来上がるのを待った。

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三峰神社とは狼を信仰している土地だ。それは鳥居の前を見るだけで普通の神社とは違うことがわかる。ふつうは二匹の狛犬が出迎える。ところが三峰神社ではかわりに狼が座っている。しかもわかりやすい狼ではなく、あばらが浮いた餓えた狼という異様な姿だ。その土地の猫や犬の体型からどんな環境なのかを簡単に判断することがあるんだけど、それに乗っ取るならかつての三峰の山にいた狼が厳しい環境の中にいたことは想像に難くなかった。

なにかしらの重要な会話をする機会を失ったまま、無意味な会話を続けていると友人たちとどこかで疎遠になる。その後はおおよそ自分を基準として友人たちを測ったりするから、なんとなくうまくやっているのだろう、なんて思いこんでしまい、数年して会うと誤差に驚くことは少なくない。

 

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ずいぶん前から会っていなかった知人に会った。彼は最後に会った時と同じ服装をしていた。しかしそれは彼の年齢を考えればとても似合っていなかった。ただ顔だけが年をとっているようだった。立つ姿勢もひどく曲がっている異様な姿だ。言葉にならない気持ちになりながら、やはりそこでも無意味な、ありきたりなあいさつと会話を進めてしまう。時間によって彼がどんな環境におり、どんな重要な物事から目をそらし続けたのかがはっきりと表れるのはいたたまれなかった。

車で無意味な会話しながら、写真を撮ったりみんなでおいしい料理を食べたりしている裏では当たり前のように重要な物事がさしせまっている。だけどみんなわかりきっているはずなのにそれを言わない。これはあのときの国道140号線だ…最初観た時こんな風に思っていたが実際は全く違っていた。本当にかっこう悪い身なり通りのかっこう悪い現実を思い出させる。大事なドラマそれ自体の完成度はどうでもいい。あれは彼らが見ないようにしている重大なことという意味合いが強い。昔好きだった音楽を流し楽しくドライブし、ときどき釣りを楽しむあいだも重要な物事は背中合わせにいる。

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ビデオゲームならばおよそ30時間から60時間を想定したゲームプレイがあるからそこに本当に無意味な会話を差し挟む隙はあるだろう。いや、プレイヤー次第でずっと長く無意味な会話を引き伸ばすかもしれない。それは避けようのない重要な物事から目をそらし続ける時間だ。10年が経過するシーンは、発表から発売までの現実の開発期間も含めた「いったいなにをしていたんだ」という現実の苦い意味合いにも重なる。20歳の頃の服装のままで、10年後顔だけが年老いた仲間たちが再び集まるときは言葉が出なくなった。みんなあれから何をやっていたんだ…自分がただ年老いただけの知人と再会したときのような、ゾッとする脱力感を予想していなかった形で追体験させる。

彼らは10年前にいつもやっていたみたいなキャンプで、無意味な会話しかしていなかったそこでついに重大な会話を切り出す。そのとき、長かった開発期間さえ含め、ここまでに重ねてきた時間が反転していくのを感じた。最後のこの瞬間の解釈は、無意味にも近い時間を長く過ごし、重要なことから目をそらし続けた分だけ変わる。ただ重要なドラマを見るためだけにここまで進めてきたとしたら滑稽にしか映らない。だけど多くの無意味な会話や時間を過ごしたならば。

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かっこういいものじゃない。スタンド・バイ・ミーが流れるスタッフロールが始まる。冒頭にこれはないだろうと思われた楽曲がこうした結末ゆえにまた意味を変えてくる。映画「スタンド・バイ・ミー」が最も心を打つのは少年4人が協力してひと夏の冒険をするということじゃない。4人が結局のところ疎遠になっていることだ。「あの時のような友人ができることはもうないだろう」と振り返るものの、どこかで付き合いをなくしてしまう。あの映画はまったく利害関係のない、利害関係がなんなのかをわからない少年時代の関係ゆえの純粋な友情を描いたことが名作たらしめているのだとおもうが、逆に考えればある時期になんらかの重要な利害関係を持つことのない関係はひっそりと終わっていくことも示している。

ふつう疎遠になったその後はない。ところがこれはその後を体験させる。無意味な会話を続ける中でどこか大事なことを話す機会も信頼もなかったり、ともになにか長く仕事をするとか利害関係を分かち合えなかった友人や知人たちとは会わなくなっていったことを思い出した。ついに大事なことを話す時にはもう自分が、相手がぼろぼろになってどうしようもなくなったことも思い出しもした。

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