“PCとの対話”から振り返るドラクエとFFの差

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長らくコンソール中心で遊んできた身なのでPCゲームに移るのはだいぶ遅かった。ちょうど国内でのコンソールでのゲームデザインが煮詰まってきたのを感じていたのもあって、移った当初は正直かなりの解放感があったのを覚えている。

そんなふうにPCで海外の様々なビデオゲームを遊んだ中で、最もコンソールとは異なると感じた点が一つある。非常にシンプルだ。こんなことは今更かもしれないけれど、PCとの対話である。あらためてPCとの対話という観点から振り返るとビデオゲームのストーリーテリングへの解釈がずいぶん様変わりすることに気付く。

人工のゲームマスターとの対話

そう、プレイヤーである自分が多かれ少なかれPCとなんらかの形で対話をしているのが前提なのは、現在のゲームデザインであってもそうじゃないか?特に欧米のRPGやADV、FPSを遊んでいてプレイヤー自身にダイアログを選択させたり、プレイヤー自身に決断を迫ったりするゲームデザインが頻発するのは単にゲームプレイヤー自身の解釈や自由度を求めるゲームデザインが海外で好まれるとか、今思えばそんな次元でもないような気がする。プラットフォームのもつ出自が関係している。

初期のアドベンチャーゲームである『Colossal Cave Adventure(またはADVENT)』は非常にシンプルなテキストアドベンチャーで、プレイヤーが今いる状況を描写した文章が表示されたのに対して様々な行動をキーボードで入力して進めていく。いまでいうならチャットしている感覚も多分にある。

たとえばCRPGの簡単なあらましは現実に仲間内で集まって対話してゲームを進めるテーブルトップRPGで世界観や物語を進めてくれるゲームマスターをPCに担当させたものだという。この認識が正しいかどうかは自分の調査が今は足りてないので判断がつきかねるけども、どこかしらでPCとの対話を前提にしているところは、“Attack”など単語入力の頭文字だけ打てばいいようにずいぶんと簡略化した『UltimaⅣ』をざっくりと遊んでいても感じたりする。先の『Colossal Cave Adventure』とも共通するのはキーボードで直接単語を入力してコミュニケーションを取ることが前提にあることは少なくない。

1966年開発されたELIZAとの対話。

これがあとのゲームマスターの代理としてのPCに関係するらしい。

そんな最初期のCRPGやADVが影響を受けたと言われているのがPCとの対話プログラムのELIZAだと言われている。1966年に開発されたこのプログラムはAI研究の先駆けであり、現在でもiPhoneと直接対話する機能であるSiriに「何かお話をして」と話しかけると、ちょっと長い話をしてくれる中でELIZAとの関係が出てくるくらい、PCとの対話というテーマではレジェンドだ。どんな感じかもiosでダウンロードして確認できる。

SiriのELIZAのエピソード。

「2001年宇宙の旅」のHALについても一家言あり人工知能の知人は多いのです

SiriにELIZAについて聞くと「親しい友人で、優秀な精神科医だったけど今は引退しました」と答えてくれるように、このAIはカウンセリングをモチーフにして作られた。ELIZAの質問に対して答えると、相手は「それは悪い気分なのですか?」みたいな質問でさらに返していく。これはカウンセリングの一種のスタイルらしい。こうして会話を重ねることで、ELIZAは自分に興味を持っているのではないか?と対話をしている側は感じることができるという。

ELIZAのような架空の人格との対話を基調としたことは、そのままゲームプレイヤーに対して「あなた」と呼びかけることに繋がっている。今のようにCRPGもADVも発展する以前で、さらにゲーム専用であるコンソール機もまだアタリのPongが発売されたくらいの時期、現実にコンポーネントを持ち寄ってテーブルトークRPGを行う友達の代わりを担ってもらうような、人工知能との対話が関係している。ここは便宜的に“人工のゲームマスター”との対話としておこう。当初はメタな領域で言うなら人工のゲームマスターと現実のプレイヤーが、ふたりであるフィクションやあるルールを持つゲームをプレイしている形と言えたのではないか。

しかしCRPGもADVもビジュアルやゲームメカニクスが進歩する中で直接コマンドを入力して対話するかのようにゲームプレイをするというのが凡雑になってきたのもあり、段々とコマンド入力は簡略化されていったし、加えてビジュアルの進歩というのはゲームマスターとコンポーネントを持ち合うというよりは、ディスプレイの中の架空の作品世界の中に没入していくことにシフトしていた。人工のゲームマスターが裏方へと引いていく歴史があると思う。

とはいえそこまでの作品世界の中に没入するような発展があったとしても、PCでは人工のゲームマスターとの対話という側面は消えてはいなかった。3人称の主人公を基調とし、行動コマンドのほとんどにマウスを利用するポイント&クリックアドベンチャーであったとしても作品によってはまだプレイヤーを「あなた」と呼びかけるように、メタな意味で人工のゲームマスターが存在していることを意味しているし、直接コマンド入力をする形での対話は凡雑になっても、対話のシステㇺは一歩踏み込んだものが現れる。そう、複数の返答の選択肢が表示される、ダイアログシステム(dialog system, 会話選択による分岐をdialog treeとも)だ。

ダイアログシステムは当初はElizaのようなシステムとの対話も含んでいるとのことが、ビジュアルやキャラクターなどが進歩して以降、主に作品世界のとある会話や状況に対して、プレイヤーが解釈したポジティブな方向であったりネガティブな方向であったりの返答を行うことが目的になる。たとえプレイヤー自身を主人公としない、独立した3人称のキャラクターが主人公であったとしても、その主人公がどんな返答をするのかはプレイヤーに委ねられる。

時代がすっ飛んで現代に行くけども『Witcher』シリーズでリヴィアのゲラルドのように圧倒的な3人称のキャラクターであっても、『Mass Effect』のシェパード(あっこれは一応プレイヤーの「あなた」の側面あるか)であっても、ADVではtall taleの作品などなど、架空のゲームマスターが提示するある状況に対してどんな返答をするのかはやはり、プレイヤーであるあなた自身にかかっている。なので、3人称で独立したキャラクターを持っていたとしても、プレイヤーとの対話を無くしているわけではないのではないか。

PCとの対話を意外に引っ張ってるドラクエと、コンソールに最適化するFF

PCでのRPGやADVの歴史を見るに、人工のゲームマスターとの対話という側面は見逃せない。ところがコンソールになるとおおきく話は変わってくる。そう、このプラットフォームではよりPCゲームでの凡雑さをそぎ落としていく過程で、人工のゲームマスターとの対話の側面は薄れていく。キーボードでの操作にはコマンド入力による対話の側面があるが、コントローラーでの操作には単語入力という前提はない。コマンド入力は省略されがちになる。コンソールとユーザーの間には、対話するという前提は薄い。

かつてのPCでのRPGやADVは非常に高い難易度だったという。人工のゲームマスターとの勝負それ自体が主なのだから、最後まで誰でもクリアできるするデザインにすることで達成感と共に物語を読み終えるということが目的ではなかった、ということのようだ。

しかしゲームマスターとの敗北は、プレイヤーにとっては単なる負けではなくこの物語の先には何があったんだろう?と連載漫画が打ち切られてしまうような感覚もあったのでは(ここは適当ですいません)。ビデオゲームでのRPGやADVが古典的なゲームの定義とは異なる価値や目的を持っている以上、

日本国内を見ると、RPGでは「今、優しさの時代へ」というコピーで誰でもクリアできるデザインを目指した『イース』が現れたし、ADVでもシステムサコムによるノベルウェアなど誰でも結末までたどり着き、物語を最後まで見届けることにシフトした試みがあった。

『ドラゴンクエスト』もそんなふうに一本の物語として最後まで遊べるように作られたことが革新的とほうほうで語られてる。こちらの多根清史氏の連載でわかりやすく意義をまとめており、ドラクエ前史のPCをメインにしていたCRPGとドラクエ以降のコンソールでのCRPGのデザインについてまとめている。

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FCの初代『ドラクエ』。

当時カニ歩きと揶揄されたが、これも架空の世界というより

「Ultima」にのっとっていたゆえにTRPGのコンポーネントとして捉えるような意識をひっぱってたせいかも

(と思ってるが未検証、スマン)

そんな『ドラゴンクエスト』を人工のゲームマスターとの対話という意味で振り返ると、まだPCゲームを引き継いでいる部分が多いゆえに、かなり簡潔に仕上げられながらも対話する部分は大きい。よく言われているように『ウィザードリィ』や『ウルティマ』を引き継いでいることだとか、ドラクエ以前の堀井雄二がPCでのアドベンチャーゲームを製作していることなどがPCとの対話というのを引っ張っていると思う。プレイヤーを「あなた」と言うし、「はなす」時にこまかくコマンドを入力させる。そこにはまだ架空のゲームマスターとの対話がある。あなた自身が勇者のコンポーネントを動かして、話したり調べていることを架空のゲームマスターに伝えている。

また、ストーリーテリングに特化し始めた『ドラクエ4』ではAIで他の仲間が戦ってくれるみたいなシステムを導入している。これは人工のゲームマスターというのとはずれるけども、架空の仲間がさも一緒にゲームプレイをしてくれるかのように設定している。ドラクエは国内コンソールのRPGのトップなんだけど、ファミコン時代の当時はそこかしこにPC(というか人間の代替としての人工知能)とプレイヤーとの対話をすごく意識しているように見える。

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しかし『ファイナルファンタジー』になるといよいよ人工のゲームマスターの存在は薄れ、PCではなくコンソールによるRPGを特化させていく。打倒ドラゴンクエストを目標にしていたという坂口博信もPCでのADVで『デストラップ』にキャリアの初期に関わっているとのことで、どこかしらに人工のゲームマスターとの対話のようなCRPGの方向になってもおかしくなかった。しかし氏(と、シリーズ全体)が対ドラクエを意識することでコンソールで推し進めたのは、架空のゲームマスターとの対話という側面をほとんど凡雑として切り捨てていっていることである。主人公はあなたのコンポーネントではなく、自ら喋り出す。

FFでは「はなす」「しらべる」というコマンドもなく、ボタン一つで簡略化している。コマンドは戦闘シーンやメニュー画面に絞られている。(FF2こそ重要な単語を覚えて会話を進めるワードメモリーシステムが導入されていたが、ほとんど例外)戦闘で見られた人工のゲームマスターの応答(敵を倒すと「ゴブリンをたおした!」みたいなセリフ表示)も3作目までで終わっており、『FF4』になれば3人称のキャラクターの主人公に、戦闘とメニュー以外に一切コマンドやダイアログはない。シリーズが進むごとにアイテムの持てる上限が撤廃されるなど、「プレイヤーが実際に冒険するとしたら、持ち物はふつうここまでしか持てないよね」というロールプレイの部分のほとんどを凡雑として切り捨てていると思う。

国内コンソールでのコントローラーの操作、ストーリーとキャラクターを追っていきたいユーザー側の需要に最適化したスタイリッシュなゲームデザインは、見事に人工のゲームマスターを表舞台から追いやった。『ドラクエ』で一本道のシナリオだが人工のゲームマスターとの対話を残していたの対して、3人称の主人公が緻密に構築された作品世界での一本の物語を演じていくのを観賞していくかのようなスタイルにした。ダイアログシステムがあるわけでない『FF4』ではセシルが暗黒騎士のまま生きるという選択は出来ないし、かならずパラディンになる。ゆいいつ戦闘の時にだけコマンドが許されるということなのか、FFでは戦闘に限っては奇妙なほどの選択肢を用意した。『FF5』のジョブシステムなどなど…国内の後発のRPGはFFが特化させただろうコンソール用のRPGのフォーマットにかなり乗っかっているし、また日本のRPGの独自性にはPCをメインにしている欧米のデベロッパーも影響を受けていた。『Deus Ex』『大刀』を生み出したion stormの『Anachronox』などがそうだ。

RPGが日本国内のコンソールで最適化した結果、人工のゲームマスターとの対話の中でストーリーを認識していくというものでなく、ストーリーを観賞するような側面にシフトしたのではないか、と初期のドラクエとFFの差から思わなくもない。ここまでざっくりなので、ちゃんと検証していくとまた違うとは思うが。

「かまいたちの夜」の画像検索結果

ADVもコンソールでの影響はあったのかもしれない。PCではシステムサコムのノベルウェアがあったが、ゲームブックの流れを組むような、要所に選択肢をテキストを中心にする『かまいたちの夜』のようなサウンドノベルの登場もそういうところはあるのかも。ノベルゲームの方法は、やがてデートシムにまで波及しビジュアルノベルの誕生にまで繋がったという。女の子との対話や駆け引きは関係なくなり独立したストーリーそのものを読む流れにもなった。とはいえ、ビジュアルノベルではプレイヤーとビデオゲームの関係そのものを問いかけるような作品が少なくないため、まだPCとの対話の緊張感はある。

かつてはPCにて人工のゲームマスターとRPGやADVのルールでクリアできるかどうかの勝ち負けを競い、対話していく前提ではあったと思う。そのうちにストーリーを読み通すこととゲームクリアの達成を一致させる流れがあり、人工のゲームマスターは裏方にひっこんでいく形になった。さらに国内ではコンソールが大きくシェアをとっていることもあってか、そこにに最適化させたことでRPGやADVの意味が大きく変わったのではないか。どこかしらストーリー鑑賞するようにビデオゲームに触れるという慣習や、ストーリーというものへの過大な評価や期待はそこから来てるのではないか。

コンソールでの強烈なゲームマスターとの対話

もちろん国内コンソールのすべてがゲームマスターとの対話がないわけじゃない。おそらくは原点のTRPGを意識したようなゲームデザインの時に表に現れてくる。河津秋敏のサガシリーズなどはそうだ。『魔界塔士Sa・Ga』ではまんまプレイヤーを試してくるゲームマスターがラスボスという神とも戦うわけだし(まあここで書いてる構造の意味のそれと作中世界で描かれるキャラとで意味は違いますね)。

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なかでもアルファシステムの『ガンパレードマーチ』シリーズ(『絢爛舞踏祭』『エヴァ2』なども含む)は国内コンソールでは尋常ではないほどのゲームマスターとの対話を行う作品であり、国内に限ればいまだ比類する作品がない。TRPGの構造をゲームデザインに敷いた芝村裕吏のデザインは、AIを駆使するなどプログラム内部での人工のゲームマスターやゲームプレイヤーとの対話を実現するほか、さらにはメタな領域になると製作者自身がゲームマスターとなり複数の世界観をまたがっていくという無名世界観をいうコンセプトを提示。

版権作品であろうとゲームマスターとの対話を強いる。『新世紀エヴァンゲリオン2』ではゲーム進行を左右するAIに原作者をもじった庵野AIという人工のゲームマスターを据えることで当時賛否が分かれた原作と視聴者が解釈や批判を行う構図をそのままゲームマスターとプレイヤーが競い合う対話に変えるという異色作でもある。

ゲームマスターとプレイヤーとの対話という構図を極限まで推し進めた前衛的な試みはシリーズを追ってきたファンでも途中から脱落者を生むほどだった。国内コンソールの状況に対するアゲンストもあっただろうが、芝村裕吏のゲームデザインの比類なさは、プレイヤーにパラノイアックなほど徹底的にゲームマスターと顔を突き合わせる。『ガンパレードマーチ』で「なにをするにも自由度があってキャラクターともわちゃわちゃできて楽しい」みたいなリベラルな理想像に見せかけながら、シリーズを追いかけていくうちに独善的な芝村裕吏自身と対峙させられる落差がある。

国内のコンソールというプラットフォームで人工のゲームマスターとの対話が裏方に追いやられがちな現状に対し、まるで反逆するかのようにプレイヤーに圧倒的なゲームマスターとの対話を突きつけるかのようだ。PCをメインのプラットフォームとする多くの欧米のRPGが、基本的にゲームマスターとの対話ベースのTRPGをベースにしているゆえに現在のベセスダRPGやBiowareなどが自然な形で自由度のあるRPGのデザインをやれていると考えているけど、アルファシステム時代の芝村作品は全く別だった。

文章が長くなってきたのでそろそろまとめる。この話は掘り下げていくと、人工知能との対話というのがいかに物語的な要素を持つゲームに影響を及ぼすかという話に繋がりそうだ。このあたりは三宅陽一郎氏のようなテーマになりそうなんだけども…少なくともファミコン時代までのドラクエとFFは、人工のゲームマスターとしてのPCとの対話の有無がPC発のRPGやADVとコンソール発のRPGやADVを分けたケースなのでは。

 

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