デトロイト不気味の谷と俳優たち

『Detroit: Become Human』は初期の3DCGのビデオゲームやアニメーションに触れてきた世代にとっては、意図的にデザインされた不気味の谷と戯れる体験でもある。

バグやグリッチはプログラムのミスだが制御してデザインに組み込めばクールな表現になったり、ジーンズの破れも制御して組み込めばファッションの表現になるのと一緒だ。そして現代の3DCG キャラクターは、実際の俳優たちの演技の中で制御されている。なので不気味の谷が意味を持つ。いま3DCG の空間の中のキャラクターと俳優は、いったいどんな風にその存在を評価されるのか?



俳優が3Dスキャンされ、実際の動きから表情の演技まで含めビデオゲームの世界に登場することは珍しいことではなくなった。それは不自然なCGキャラクターである不気味の谷が消えていく流れと応じていた。『Detroit』では発売前より「不気味の谷を超えた」みたいな言葉が少々見られたけれど、逆にもうそうした欠陥と戯れられるくらいまでに現行のCG技術が上回っていると見るべきなんだろう。

昔は人気俳優が登場することはプロモーションの理由と言うことで、その俳優がビデオゲームの中でどんなふうに映されて、どう演技が評価されるのかって話はあまり現れなかった。英語圏ではFMV(フィルム・モーション・ビデオ、実写取り込みのアドベンチャー)という手法があるが、そこで俳優が演技しているのを体系的に評価されているのはあったのか。最近では『Her Story』の主演女優、Viva Seifertが嘘や性格を暗に表現する難しい役柄を演じたし、ゲームデザイン自体も俳優の演技を読むことが重視されていた。だからその演技は評価の対象になっていた。

ところで3ⅮCGのビデオゲームの世界に登場する俳優は、その存在と演技をどう評されるのか?うちのブログも試験的に『龍が如く6』にてビートたけしの存在感みたいなことを書いたけれど、まだビデオゲームの世界の中での俳優の評価というのはそんなに見られなかったりする。

2000年前後の金城武。当時3Dスキャンがなかったから顔から直接型取りするという無茶な時代もあった。

そのかわり声の演技は拒否反応ということで過敏に評価される。『龍が如く6』の真木よう子は3DCGだからこそ、血の気のないところがどこか映えたところもあると思うが、フラットな発声のみが棒読みということで批判された。俳優出演のパイオニアとも言えそうな『鬼武者』の金城武の時もそうだ、結局のところ彼らがビデオゲームの世界のなかでどんな存在を発揮したかは語られないし、記憶には棒読みの話ばかりだ。

いずれにせよプロモーションの意味と声の演技以上のまともな評価はなかった。金城武や真木よう子はじめどれくらい本人の演技がふくまれているかというと、3Dスキャンと声の演技がメインで、全編でモーションキャプチャまで担当して演技することまでは少ないから実質的に声の演技までが評価対象になっちゃうのもやむなしかもしれない。

「BEYOND: Two Souls」の時点でパフォーマンスキャプチャーによる収録を行っており、より俳優の演技も含めた形に。

だがすでにAAAの界隈では現実の俳優が登場し、しかも実際にモーションキャプチャをつけて演技することはオーソドックスとなっている。もうすでに俳優の存在そのものや、演技がビデオゲームの根幹に影響している時代であり、ビデオゲームでの俳優の評価というのも可能だろう。特に『Detroit』は俳優の存在や演技がかなりの部分、ゲームプレイの体験に影響を与えており無視することはできないレベルだと思う。

かつて3DCG 世界のリアルなモデリングのキャラクターは不気味の谷と呼ばれる違和感から逃れられなかった。現実に存在しないキャラクターを本当に生きているように感じさせるには多くの技術と年月を要した。

たとえば1997年の『クーロンズゲート』を観ると手付けのモーションに限界があったことを感じさせる。なにせ国内のビデオゲームでは1995年の『バーチャファイター2』がはじめてモーションキャプチャを使用していたくらいの時期である。当時自ずと限界があった。

とはいえキャラクターデザインを担当した井上幸喜氏はおそらく不気味の谷の問題を自覚しており、クリエイターが手付けで演技させるCGキャラクター表現を人形浄瑠璃にたとえた。アニメ的なデフォルメを使わず、あえて不気味の谷を九龍城の違和感として利用したんだと思う。『Detroit』ではクーロンズゲート的な不気味の谷を思い出すシークエンスが、機能停止に追い込まれるアンドロイドが多数登場するマーカス編で観られる。(おそらくは)ナチュラルな人間の表情や動きのモーションを意図的に抜いただろうアンドロイドのキャラクターの表現からそういう時代のことを思い出したりした。

クアンティックドリームは特に実際の俳優が3Dスキャンからモーションキャプチャーに至るまで、全ての存在感と演技を3DCGの空間内で実現しようとすることで「他に存在する様々な物語、感情は画期的な材料になりつつあり、我々は今後これらを取り入れることが出来る」根拠としていると思うデベロッパーなのだが、実際のゲームでは俳優の存在感や演技が無になる、やはりある種の不気味の谷から逃れられない一面もある。

このあたりはなつかしのMega64が思い切りいじっている。クアンティックの生活ムーブを操作に代表される、ささいなことでもプレイヤー自身が演技させることで実際の俳優の演技とシンクロさせていく仕掛けで現実的な感情を表現したがるメカニックは上記のネタみたいに明らかに不自然でおかしな、いわばゲームプレイの不気味の谷と言うべきものが生まれている。

バカみたいなんだけど、クアンティックが想定している実際の俳優たちの感情を込めた演技と、どうあがいても冷たいゲームプレイを噛み合わせようとする齟齬が今日までのクアンティックの志の高さと反する評価の微妙さを生んできたとも思う。

しかし『Detroit』では俳優の実際の演技で見せる感情と、どうあっても冷たいものにしかなりようのないゲームプレイの狭間をアンドロイドという背景が意味を為している。キャラクター表現でもゲームプレイの面でもついて回る、実写映画からすれば不気味の谷が生まれる問題は、ここでは意味を持つ。

このアンドロイド世界観がクアンティックが腐心してきた、現実の俳優の演技が生み出す感情表現をビデオゲームでプレイヤー自身が触れるメカニックにかなり効果的に機能している。たとえば主人公カーラとマーカスは、ゲームスタート時はほんとうによくあるゲームキャラの如く、無表情で簡単なお使い作業しかできない。ここで彼らを演じるヴァロリー・カリーもジェシー・ウィリアムズも意図してアンドロイドの不気味の谷を感じさせる演技を行う。

ビデオゲームでキャラクターが不気味の谷にあろうが、多くは慣習ということでさして気にしてなかったりもするのだが、クアンティックはたぶんそこをどうにかしたがっているスタジオだ。それが現実のスキャンやキャプチャー技術により俳優の感情表現をそのまま再現できるようになったことや、2013年の以降のエピソード系ADVやRPGにある倫理選択による緊張感を与える物語デザイン(本作はLAノワールからTelltale Games、バットマン、Flogwaresホームズなどかなり先行作品を研究していると思う)が並走することで、ついに谷を超える段取りが出来上がったと言える。

そうした試みは今回特に感動的である。アンドロイドが自我を持つ“変異体”になる瞬間、いわば実際の俳優の不気味の谷を超える演技がそのままゲームプレイで体験できることが『Detroit』の体験の最たるものだ。

マーカスが変異体になって以降のジェシー・ウィリアムズの存在感と演技力はすさまじく、被差別者のリーダーとなる苦悩の演技ははもはや作中世界のアンドロイドの意味を超えてしまう。

彼がスウェーデンの母とアフリカ系の父を持ち、大学時代に父方のルーツを探る方向に進んだことに加え、メイキングでも本作を「社会から虐げられた人たち」という部分に言及するなど、彼のルーツによる立場も含んでいるだろう複雑な感情を込めた演技によって、革命に向かう様々な選択肢の緊張感を保証してる。主人公3人の中で『グレイズアナトミー』のレギュラーで演じていた実績もあるのか、後半で主人公たちが揃うシークエンスでは座長の貫録を持つ。

不気味の谷という意味ではブライアン・デッカード演じるコナー捜査官の演技や存在感は随一であり、彼はよくあるゲームキャラのアバターみたいに血の通っていないムードを徹底している。自分が思い出したのはなんでか『GTAⅢ』の主人公クロード・スピードだったりするのだが、コナーのシナリオでは特に感情を持ち、不気味の谷を超えることがテーマとなっている。そこには俳優の演技とゲームプレイというのが過去になくシンクロしていると言える。ブライアンのフィルモグラフィーを見るに主演となった本作はおそらくかなり合った役と思われ、代表作になるのは確かでありそれが後のフィルモグラフィーにどんな影響を与えるのかも気にかかる。

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そして不気味の谷を超えすぎたあまり、マーカス役のジェシー・ウィリアムズとノース役のミンカ・ケリーという、作中で恋人同士にもなるふたりがほんとうに現実でも一時期恋人関係になり、ジェシーは妻と離婚し、ケリーとは本気なのかなと思われていたけど別れたっぽいというゴシップの現実につながったこともまた、実写映画の世界とビデオゲームの世界の境界線が薄れた事例である。

近未来のビデオゲームでは、スタンリー・キューブリックの遺作『アイズワイドシャット』で当時ほんとうに夫婦で夫婦役を演じたトム・クルーズとニコール・キッドマンがその後離婚したこと含めて評価したり、『GTO』で反町隆史と松嶋菜々子が共演したきっかけで結婚するのも含めて鑑賞するように、ゴシップもゲームプレイの味わいを変える範囲に含まれるのだ。これが不気味の谷を超え、言いたいことも言える世の中になった毒も含む人間になった姿である。

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ブライアンと青い髪のアンドロイド役のアメリアも婚約したりしたよ 最近一緒にゲームプレイする姿を配信。

参考:ゲームが獲得しつつあるリアリズム キャプチャー技術の発達でゲームはどう変わっていくのか-比類ない堀井雄二インタビューなどを代表とする、ストーリーゲーム研究ライター福山幸司さんの記事より。キャプチャー導入による、俳優の存在感についていち早く言及した内容。

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1件のコメント

  1. こんにちは。いつも楽しく読ませて頂いてます。
    キャラクターを介して俳優を見る、俳優を介してキャラクターを見るというようなことは、映画や演劇では観客が図らずもしてしまうことのように感じますが、ゲームやアニメではそういった感覚が多くないような感覚が自分にはあります。
    参考の福山幸司さんの記事を見て、MGS3のカットシーンでモーションアクターのクレジットを出す裏技があったことを思い出しました。デトロイトやLAノワールのように表情までではないにせよ、セガのルーマニア#203はマネキン的なキャラクターを通して演じる俳優を感じたゲームでした。
    外見と声、声とモーションを同じ人間がやった例はそれなりにあったとは思いますが、演じる側の持つもともとのネームバリュー以上にはそこまでの注目を得られなかった印象はあります。
    デトロイトは、記事のなかにあった、キャラクターが不気味の谷におちいることでプレイヤーから異質なものとして捉えられないようにするクアンティックドリームの意識と、人間の身体性からは異質に感じられてしまうアンドロイドのおかしみが合致したのかなと思いました。

    この記事を拝見する前日にたまたまアンドロイドがテーマになった演劇を観て、コメントさせてもらおうと思いました。いろいろ書きましたがクアンティックドリームのゲームは全て未プレイです。ずっと追っかけてはいるのですが。
    どうも失礼致しました。
    とてもおもしろい記事をありがとうございました。

    いいね

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