Depression(抑鬱)はいかにオリジナルを意味しなくなったか

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いつからビデオゲームはDepression(抑うつ)で溢れかえるようになったのか?

最近の新作のインディーゲームでは少なくない頻度でこのテーマの作品が発表されるほか、昨年にはなんと『Hellblade: Senua’s Sacrifice』が発表。これはDepressionとはもっとも遠いジャンルのはずのスラッシュアクションを製作してきたNinja Theoryまでも精神の内部に潜り込むことをテーマにするという、スラッシュアクションからすればある種歴史的なことかもわからない。

サンプリング・リミックス。オマージュ、パロディ。コピー&ペースト。複製や2次創作で溢れかえるのことに際限がなくなるなか、いまさらながらオリジナルとは何なのだろうか。うんざりするほど繰り返された議論だが、いまだに手堅く解釈されるのは作家本人の精神や個人性を反映した作品であることだ。

どんなに複製で溢れかえるなかでも作家本人そのものだけはオリジナル、自分自身をさらけ出すことこそオリジナルというような。しかし、正しくオリジナルであることとはロジカルで、テクニカルな部分は多分にある。自分は作家の粗雑な感情や精神にフォーカスすることをもってオリジナルを定義するのは、瞬間的には面白くとも、賛同しすぎないようにしている。

だけど作家の精神がぼろぼろになることが見えることで、観客は目を離せなくなる。そんな残酷な瞬間を目にして「オリジナルではないね」と否定することは難しくなる。作品世界の奥に作家本人が見え、ぼろぼろになっていることオリジナルであるということを、文学や芸術とカウントしてしまい、許してしまう傾向はある。

これは作品鑑賞の上の慣習のせいか。それとも本来そうなってしまうのか。今掃除中に中学か高校のころの美術の教科書をみた。世代によって今は違うだろうが、ほぼ間違いなくファン・ゴッホについて編集されている。ありきたりなところでは彼は自らの気持ちにしたがって描き続けました、生きている間誰からも評価されなくとも描き続けましたみたいなまさしく芸術の誤読を推進させたとしか思えない記述をされていることも少なくない。

でもあれはニルヴァーナのカート・コバーンが教科書で大々的にフィーチャーされているような違和感があってしょうがない。だってところどころ似てるんだヴァンゴッホやカートの経歴。精神病棟を行き来し、同じ画家ゴーギャンと一時暮らすが諍いで耳を切り落とす自傷行為、不安定な精神状態を理解してしまう補色を使う作風(逆同士の色相を使うことね。赤と緑、青と黄。)そして拳銃自殺である。

ゴッホがこうまで肯定されるならば学校教育の音楽で自らの衝動に突き動かされた「rape me」を絶叫させることを肯定させてもいいと思うがそれはない。おおよそ学校教育の現場では音楽は個人ではなく集団で実現するものだから。西洋音楽が集団の演奏でようやく実現することのできるのに対し、作家ひとりだけで全てを完結させてしまう印象派以降の近代絵画(それも特異なタイプ)がDepressionを表現してしまう差だ。

いずれにせよ「作家がひとりで内的な動機から制作し、それを感じられる表現」が俗流の美として評価される慣習は義務教育の範囲からでも出来上がってきた。過去の美術から小説でも映画でも作家の精神の疲弊に伴う作家性をオリジナルだと定義することはあまりに魅力的だった。ぼろぼろになることで使う色彩、言語のチョイス、それぞれが不気味に軋み、類型的な構造を打ち破る。その軋みを正当化するために文学的であるとか、アートであるという言葉を使い、オリジナルであると解釈する。

翻ってビデオゲームはどうか。自分は基本が日本国内コンソール史観にあるのだが、それでも時折精神の内部に入り込み、本当に作家自身の問題か、登場人物の問題かはともかくも精神の内部に入り込み、ゲームプレイの中で深く潜り込んでいくような体験はあまりに魅力的だった。それを夢の中ですとアナウンスせずに、まさしく登場人物か作家の内面の中で現実に起きていることの中に潜り込んでいく体験は、90年代のある時期から頻発してきた。著名なところを挙げても『MOTHER』など、RPGのジャンルで括り切れない体験だったのは確かである。

しかしそれはあくまでアクセントであり、ビデオゲームにとってオリジナルであることはまだまだロジカルに発想されることで作り上げられていた時代ではあったはず。ゲーム制作が多数の人数で制作される媒体であり、個人の精神性を中核とした作家性にフォーカスされることが希少だったというのもあるだろう。

だが時は過ぎ、日本語圏のフリーゲームから現在の英語圏のインディーゲームでは様子が違った。集団で制作することから解き放たれた、作家がたったひとりで作ることが少なくないこのフィールドだから。また、そのころまでに精神の内面を表現する手法がコンソールのようなフィールドでも少なくなく現れたから。(古い自作ゲームでほぼ一人で作る時代でも、堀井雄二が賞を取る裏のあずかり知らないところで、ただ人生の苦痛を刻み込むようなゲームデザインしていた歴史の影に追いやられた存在もいるのかもしれない)。『ゆめにっき』『タオルケットをもう一度』などなど、『Neverending Nightmares』ベッドルームでひとりビデオゲームを作り上げていくことは、たやすく作家個人の精神に直結していく。

 

Depressionが溢れかえり、なにか自身をオリジナルだとさらすことは実際にビデオゲームは豊饒なオリジナリティに溢れかえらせることになったか。昔、バンドでオリジナリティを生み出すためにドラッグを投与した状態で演奏させるというのがあったらしいが、結局のところどれも同じような音のゆがみしかないみたいな話にしかならなかったという話を思い出す。Depressionがビデオゲームで確かなオリジナリティを生み出すと、内面の危機がさらされている作品は 実際のところもはや大きな差別化は見られなくなった。

Depressionとは、かつて集団制作が当然であったゲーム制作で、個人や少数製作の時代に以降する過程ではたしかにオリジナルであるテーマだった。しかしビデオゲーム制作の民主化が生み出したのは作家ただ一人で制作に向き合うということ、そこでは様々な要因によりDepressionにぶつかることはたやすく発生し、またDepressionと戯れることが、作る側か、または遊ぶ側か両者かが、なにかオリジナルだと信じてしまうことがあるのだろう。

かつて珍しく、新しい体験だった内面の苦しみを追体験するビデオゲームは、いまではありふれたテーマになってしまった。それどころかどれだけいま、日本国内に目を向けるとメンタルヘルスを少なくとも健常なサイドが俗語で4文字に省略した言葉を枕にした私小説的な書籍などで溢れているか。それはオリジナルなのか。Depressionというやはり真剣なテーマに変わりないそれがどれだけカジュアルにあふれているのか。

2件のコメント

  1. はじめまして。移転前のサイトから辿り着きました。
    とても興味深くて素晴らしい記事ですね。
    苦しみを追体験するゲームといえば「The beginners guide」を思い出します。
    作品に対する考察が作家の精神分析に繋がるような作品は
    人を強烈に惹きつけるのでしょうか。

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  2. 恐縮です。ココログ時代が執筆環境としては厳しいもんだったので、ワードプレスにて継続しております……

    「The beginners guide」もそうですね、MODからインディーデベロッパーにという制作者自身の問題を描いたものであるとぼくは読み取っているのですが、ここ数年は制作者が本当に個人的な問題を描くようになった時代になった思います。でも作家個人の問題というのが真新しいことって自意識の問題で、実は自意識のことってオリジナルだと信じやすく、誰でも手を出してしまうことなので実はそれほどクリエイティブではないかもしれない。というのが最近の気分でした。

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