国道140号線DRIVING SIMULATOR

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かなり前にちょっとした休みが取れた時に昔からの友人と埼玉県の秩父にある三峰神社に車で行った。国道140号線に入り、しばらく運転していくと本当に景色が山と木々というとてもシンプルなものになっていくのもあって、いろいろ会話をする。話題が途切れればみんな静かに窓の外の風景を眺めていたりする。

ドライブの最中というのは後になって思い出せないような本当にしょうもない話しかしない。よく考えるとドラマや映画なんかでやけに重要な話をするシークエンスにどこかしらの車中でなんてありふれているけど現実にはあまりないわけで、考えてみればタランティーノの映画がとくに伏線にも繋がらないような無意味な会話をあえて入れるというのは映画ではびっくりすることなんだけど、現実では毎日あたりまえに出くわしている。

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初代聖剣伝説「マナの神殿」は誰もリメイクできない

Nintendo Switchで『聖剣伝説コレクション』がリリースされたのもあり、ひさしぶりに聖剣伝説シリーズ関連の音楽を聴いている。

スクウェアのピクセルアート技術が乗っていたFC-SFC時代。聖剣伝説シリーズの全盛期と言える3作目まではウェットな物語に感情移入を促すような作り方を特色にしていた。しかしあらためてゲームボーイの初代聖剣伝説のBGMを聴いていると、ひとつだけ異色の楽曲が存在する ことがわかる。最後の場所であるマナの神殿の音楽だ。

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『Strange Telephone』知らない通知先

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ありふれた電話は、ほんのささいな行き違いで奇妙な体験につながる。たとえば一通の知らない番号からの不在着信に折り返すとき。電話番号の押し間違い。はたまた、いたずらで適当に番号を入力して、偶然繋がってしまった。そのとき、電話の先にいる人間の声がだれなのかをまったくわからないまま会話が始まる。たいていは「番号を間違えました。すみません」の一言で終わるだろう。けれど、実態がわからない、座りの悪い感覚は残る。電話の向こう側の彼らは何者だったんだろうか?誰だったんだろうか?

膨大な電話番号にコールし向こう側がまったくわからない世界に触れていく『Strange Telephone』は見知らぬ電話番号の向こうが誰なのかがはっきりしない座りの悪さを思い出させる。スマートフォンを主なプラットフォームとしていることもあって、より生々しい感触を残していく。

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『For Honor』で思い出した『北派少林 飛龍の拳』とカンフーの心眼

「飛龍の拳3」の画像検索結果

ひとは6歳までに遊んだビデオゲームに縛られ続けるという呪いにかかっているという話を今思いついたのだが、最近はふっとした瞬間に『飛龍の拳Ⅲ 五人の龍戦士』のOPテーマが脳内で鳴り響くのでいろいろと思い出していた。カルチャーブレーンの最盛期が自分の幼稚園から小学生に上がるころまでに重なっていたのだ。たいていの人にとってマリオのほうが馴染みのある隣人だろうが未だに自分にとっては外国人のままだ。当時スーパーマリオを3面から先に進められなかったからだ。リュウと聞けば『ストリートファイターⅡ』ではなくいまだに『スーパーチャイニーズ』の2P側の方を思い浮かべるくらいに幼少期はそっちのほうに馴染んでいたのだった。

それよりも色々と知った今、振り返ってみればあのゲームシステムは洒脱だったんじゃないか?そう、『飛龍の拳』の目玉の格闘システム、心眼システムによる格闘シーンである。あれは今考えればあそこまでカンフーの攻防をプレイヤーが体験し、再現したシステムは無かったんじゃないかとおもったのだった。

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「リプレイ性」の評価

「life is strange GIF」の画像検索結果

ゲームレビューでお金をもらうことを少しやっているし、ちょっと海外などの公式なメディアが行っているレビューも参照している。そこで気になっているのは、リプレイ性(Replay value  Replayabilityとも。リンク先には今回記事の内容が大体詰まってる)という評価の使いどころだ。総評にリプレイ性の高さを挙げているレビューはよく見かける。

それにしてもリプレイ性とはこのジャンルらしい評価である。たとえば小説などで再読性という部分で評価が行われることはあるのか、とざっくり検索で調べると「再読に耐えうる」のが名作である、「謎を解くために再読してしまう」などなどで評価していくことは多い。

でもそれは二次的な評価であり、まず一次的な書評で「再読性が高い」とか、読者が読むごとに様々な読み方をすることを期待した評価は(自分の見た範囲では)そんなにはないはず。いっぽうビデオゲームのリプレイ性というのは名著の「再読に耐えうる」というのとは、もちろん別の意味を持ってる。

リプレイ性とは、プレイヤーが様々なゲームプレイを受け入れてくれるなど様々な意味合いから使われている。しかし改めてまとめると、どういうときに使っていくとわかりやすいだろうか?(なお、今回エントリはシンブルプレイに話を絞っていて、マルチプレイにおけるリプレイの意味はまったく取り扱ってない)
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いまごろの『Flowly』 thatgamecompanyのアクションをアートにする試み

 thatgamecompanyの第2作である「Flowery」を今頃クリア。「風の旅ビト」であんまりにも高い評価を得たおかげで今となってはその前段階の作品という印象はあるが、こっちのほうが印象深かったり。ってとこまで去年書いたまま半年以上放置してたものを今頃まとめた。

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ビートたけしが桐生一馬の幻想を殺す

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桐生一馬は『龍が如く』の世界では伝説の極道として長い年月を重ねている設定だ。しかし、プレイヤーである自分の目線からは年月による加齢なんてまったく見えないし描かれない。マリオやソニックみたいなあくまで記号的な存在と思う。最終章である6では48歳ということらしいが年齢に意味があるように思えない。加齢を描ききれていないのである。そこに現実で壮絶な経歴を辿ってきたビートたけしが立ちふさがることでいったい何が起こったか?

『龍が如く』シリーズは多数の俳優や芸能人・スポーツ選手をフェイスキャプチャーして採用しているということをちょっとした豪華演出とかそんなところに金をつかうなみたいな話が出てくるけども、広く見てみれば『LAノワール』や『クオンタム・ブレイク』、チョウ・ユンファを起用した『ストラングルホールド』、さらには小島秀夫の新作ではマッツ・ミケルセンが主演するなどなど、実際の俳優の存在感をビデオゲームで活かす流れがある。その意味で日本国内でもっともそこを切り開いている唯一のシリーズであると言える。

『龍が如く』シリーズでは初期こそは俳優や芸能人を声優で起用するまでだったのだが、シリーズを重ねるにつれて遠藤憲一など実力ある俳優の起用から、プレイアブルキャラクターに引退をすることになっちゃった成宮寛貴などを起用しつつ、段々と哀川翔、竹内力、小沢仁志といったVシネマのトップが起用。実際、Vシネマが勃興してゆく80年代末を舞台にした『龍が如く0』で竹内や小沢が存在感を示すというのはその大味さとも相まってハマっている。

では最新作『6』ではどうかというと、宮迫博之から藤原竜也、そして小栗旬、真木よう子、大森南朋と全員が単体で主演を張れる俳優たちが採用されている。ところが彼らの採用は前作のような『龍が如く』の作品世界を構築していく方向じゃない。それぞれが作品世界からはみ出てしまうぎりぎりのところにある。

その究極がビートたけしだ。一見現代ヤクザ映画のトップ『アウトレイジ』のとの無邪気なコラボに見えるが、『龍が如く』の世界に登場したたけしは不気味に均衡を突き崩していく。もちろんこの後「続きから」では『龍が如く6』のねたばれだらけだ。

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