『クリスティーナの世界』と『The Last of Us Part II』

『The Last of Us Part II』が終わりを迎えるころ、『クリスティーナの世界』を引用したシーンが登場した。『クリスティーナの世界』とは、アメリカの画家アンドリュー・ワイエス(参考画像)が1948年に描いたテンペラ画であり、彼の代表作として世界的に知られている。

ノーティドッグがどんな意図をもってアンドリュー・ワイエスの絵画を引用したかはすぐにはわからなかった。『クリスティーナの世界』はあまりにも強い印象を与える絵画である。ここまでのゲームプレイから浮いてしまうような引用には少し上滑りさえ感じた。この絵画は映画や小説でも引用されてきたが、ほとんどはワンシーンに少し出てくるくらいだ。しかし『The Last of Us Part II』の場合、事実上絵画の内容を3DCGで再現する規模で引用されている。

だけどもともとの絵画が持つムードや、制作された背景を思い起こすと、エリーの救いがない旅路に違った意味合いを感じさせたのも確かだった。

(さらに…)

よこはまコスモワールド(またはグランドインターコンチネンタル)周縁の路上にて

馬車街道西

仕事で横浜に行くとき、みなとみらいへ向かうことが多い。雑多な街並みの渋谷駅から電車を乗り継いで、みなとみらい駅へ着くと、きれいで人工的な街並みが広がることにいつも驚く。駅を出れば、すぐ側でよこはまコスモワールドの観覧車と、曲線のシルエットの建物であるヨコハマグランドインターコンチネンタルが見える。横浜が紹介されるとき、クリーンな都市風景の象徴として、いつだって写真に撮られているイメージだ。

そんなイメージの周りを、溢れるくらい俗悪なもので埋め尽くしたことを、『龍が如く』シリーズを書き替えた制作側はどれだけ意図していたのだろうか。コスモワールドの観覧車のある海の向こう側では、車上荒らしに向かって壮年のダンサーがキックを放ったり、アイドルが倒れた相手を殴りつけたりするような、コントなのか喧嘩なのかわからないことがいつも起きている。

『龍が如く7』は一見、横浜の綺麗なイメージの周りで、露悪の限りを尽くしているかに見える。しかし奇妙なくらい豊穣な印象があった。おそらくそれは菊地成孔が『フロリダ・プロジェクト』の映画評で語ったみたいな豊穣さに繋がっている。

(さらに…)

ビデオゲームから主要な登場人物も、物語も、メカニクスも消えたあとの空虚な世界を映すこと

アンチャーテッド® 海賊王と最後の秘宝_20160514023552

GAME SCOPE SIZEのセカンドラインとなる『物語も登場人物も失われたあとの世界』をスタートした。これはフォトモードで撮影した奇妙な写真だけがアップロードされたものになる。いまのところはどのタイトルかも書かないし、そうだとわからないように組み合わせている。

いまのビデオゲームで多くのタイトルがフォトモードを採用しており、さまざまなタイトルのゲームプレイしているあいだに撮影を重ねていったところ、いつのまにか3千枚くらい溜まっていたのでちょっと表にも出していくか、ということで作ったのだった。

フォトモードのなにがいいかというと、とても簡単にビデオゲームから主人公も、メインストーリーもサブストーリーも、そしてもちろんゲームメカニクスまで含めたゲームプレイに関係するすべての要素を遮断した世界というものを見せてくれることだ。

ある登場人物を通した、心情や物語の上に立った視座を持たない風景、それが特定の主人公をもたない、プレイヤーのアバターを持つタイトルであっても同じで、その場合はゲームメカニクスの中で必要となる風景となる。物語とメカニクス、そのふたつの意味すら持たなくなった街並みからなにが見えるのか? というと、現代のビデオゲームではなにか世界の広がりを感じさせるほどに、細やかに構築されているのがよく見えるのだ。

こうしたアプローチをやっているところはアート方面では珍しくはないけれど、『物語も登場人物も失われたあとの世界』では淡々と物語やメカニクスといった意味を失ったあとの世界を映していこうと思う。ちょうど現実が自分の心象や、ゲームのルールみたいな行動規範から離れて続いていることを映すような感じで。さて今回記事のヘッダーは何のタイトルからの写真でしょうか? ということで写真ブログのほうもよろしく。

『デス・ストランディング』ある島の可能性

DEATH STRANDING®_20191225141839

自分がとある小説を読んでいるあいだ、テキストから想像していた風景が、視覚メディアにそのまま登場する体験は初めてだ。それをまさかの話題作がハイクオリティで実現していた。

ここに書いてあることはビデオゲームと小説のふたつの作品を通して、歪んだ形である価値観から距離を取りながらも、その価値からは手を切れないことについてである。

(エンディングまでのスポイラー有)

(さらに…)

Play back CONSOLE WARS 「セガvs.任天堂」書評

MOSHED-2019-4-17-14-26-4

Game*Sparkの連載企画「平成ゲームメモリアル」第2回では、自分が司会と構成を担当して、90年代のゲームハード戦争を取り扱った。あの時代は、企業それぞれの個性が競い合うなかで際立っていたのは確かだった。池田伸次さん、G.Suzuki(ぐらぽ)さんと組んで、打ち合わせをしつつ昔の思い出から、今のゲームについてもたくさん話したりして、半分くらいプライベートみたいな気持ちで仕事できたのだった。

そんな座談会をまとめたあと、気晴らしに図書館へ寄ったときに「なんでこれを先に読んでおかなかったんだ!」という本を見つけてしまった。『セガvs.任天堂(原題:Console Wars: Sega, Nintendo, and the Battle that Defined a Generation)』だ。評判を聞いていたけど、長らく読み逃していたうえ、せっかくダイレクトなテーマを近い時期に取り扱っていたのに!と少し後悔した。いうことで、平成ゲームメモリアル第2回の補足も兼ねた書評。

(さらに…)

Silver Case 2425 Fan Meeting

これはとある国内のアーティストが「吐き気を催した」というCMだ。東京の管理傾向や違和感のあるものの排除する姿勢そのものを美術館とアナロジャイズすること、つまりはそれを美とすることへの強い反発が元になっているのだろう。自分はこれを観て「シルバー事件の世界観みたいだ」と思った。優れたデザインによって、歪んだことを描いている意味で。

『シルバー2425』は通して見ると90年代から2000年代の都市の管理や排除の違和感がモチーフになっていたのかもね、ということを思いつつ、先日行った『シルバー事件25区』と2016年に行った『シルバー事件』のふたつの座談会の模様です。

(さらに…)

デトロイト不気味の谷と俳優たち

『Detroit: Become Human』は初期の3DCGのビデオゲームやアニメーションに触れてきた世代にとっては、意図的にデザインされた不気味の谷と戯れる体験でもある。

バグやグリッチはプログラムのミスだが制御してデザインに組み込めばクールな表現になったり、ジーンズの破れも制御して組み込めばファッションの表現になるのと一緒だ。そして現代の3DCG キャラクターは、実際の俳優たちの演技の中で制御されている。なので不気味の谷が意味を持つ。いま3DCG の空間の中のキャラクターと俳優は、いったいどんな風にその存在を評価されるのか?

(さらに…)

Depression(抑鬱)はいかにオリジナルを意味しなくなったか

yumenikki7.jpg.pagespeed.ce.oCRJayKhCM

いつからビデオゲームはDepression(抑うつ)で溢れかえるようになったのか?

最近の新作のインディーゲームでは少なくない頻度でこのテーマの作品が発表されるほか、昨年にはなんと『Hellblade: Senua’s Sacrifice』が発表。これはDepressionとはもっとも遠いジャンルのはずのスラッシュアクションを製作してきたNinja Theoryまでも精神の内部に潜り込むことをテーマにするという、スラッシュアクションからすればある種歴史的なことかもわからない。

サンプリング・リミックス。オマージュ、パロディ。コピー&ペースト。複製や2次創作で溢れかえるのことに際限がなくなるなか、いまさらながらオリジナルとは何なのだろうか。うんざりするほど繰り返された議論だが、いまだに手堅く解釈されるのは作家本人の精神や個人性を反映した作品であることだ。

どんなに複製で溢れかえるなかでも作家本人そのものだけはオリジナル、自分自身をさらけ出すことこそオリジナルというような。しかし、正しくオリジナルであることとはロジカルで、テクニカルな部分は多分にある。自分は作家の粗雑な感情や精神にフォーカスすることをもってオリジナルを定義するのは、瞬間的には面白くとも、賛同しすぎないようにしている。

(さらに…)

2017年にゲームメディアで書いてきた記事ハイライト

 

今年はメディアでかなり書いていたので自己紹介などで大きく「GAME SCOPE SIZE」を喧伝しているわりに本体のここがあんまり更新できてないのでどういう自己プロデュースだって感じになってるので、2018年は充実させていきます!と前置きしつつ、2017年にさまざまなメディアで書いた記事のハイライトです。

(さらに…)