『Strange Telephone』知らない通知先

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ありふれた電話は、ほんのささいな行き違いで奇妙な体験につながる。たとえば一通の知らない番号からの不在着信に折り返すとき。電話番号の押し間違い。はたまた、いたずらで適当に番号を入力して、偶然繋がってしまった。そのとき、電話の先にいる人間の声がだれなのかをまったくわからないまま会話が始まる。たいていは「番号を間違えました。すみません」の一言で終わるだろう。けれど、実態がわからない、座りの悪い感覚は残る。電話の向こう側の彼らは何者だったんだろうか?誰だったんだろうか?

膨大な電話番号にコールし向こう側がまったくわからない世界に触れていく『Strange Telephone』は見知らぬ電話番号の向こうが誰なのかがはっきりしない座りの悪さを思い出させる。スマートフォンを主なプラットフォームとしていることもあって、より生々しい感触を残していく。

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『For Honor』で思い出した『北派少林 飛龍の拳』とカンフーの心眼

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ひとは6歳までに遊んだビデオゲームに縛られ続けるという呪いにかかっているという話を今思いついたのだが、最近はふっとした瞬間に『飛龍の拳Ⅲ 五人の龍戦士』のOPテーマが脳内で鳴り響くのでいろいろと思い出していた。カルチャーブレーンの最盛期が自分の幼稚園から小学生に上がるころまでに重なっていたのだ。たいていの人にとってマリオのほうが馴染みのある隣人だろうが未だに自分にとっては外国人のままだ。当時スーパーマリオを3面から先に進められなかったからだ。リュウと聞けば『ストリートファイターⅡ』ではなくいまだに『スーパーチャイニーズ』の2P側の方を思い浮かべるくらいに幼少期はそっちのほうに馴染んでいたのだった。

それよりも色々と知った今、振り返ってみればあのゲームシステムは洒脱だったんじゃないか?そう、『飛龍の拳』の目玉の格闘システム、心眼システムによる格闘シーンである。あれは今考えればあそこまでカンフーの攻防をプレイヤーが体験し、再現したシステムは無かったんじゃないかとおもったのだった。

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「リプレイ性」の評価

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ゲームレビューでお金をもらうことを少しやっているし、ちょっと海外などの公式なメディアが行っているレビューも参照している。そこで気になっているのは、リプレイ性(Replay value  Replayabilityとも。リンク先には今回記事の内容が大体詰まってる)という評価の使いどころだ。総評にリプレイ性の高さを挙げているレビューはよく見かける。

それにしてもリプレイ性とはこのジャンルらしい評価である。たとえば小説などで再読性という部分で評価が行われることはあるのか、とざっくり検索で調べると「再読に耐えうる」のが名作である、「謎を解くために再読してしまう」などなどで評価していくことは多い。

でもそれは二次的な評価であり、まず一次的な書評で「再読性が高い」とか、読者が読むごとに様々な読み方をすることを期待した評価は(自分の見た範囲では)そんなにはないはず。いっぽうビデオゲームのリプレイ性というのは名著の「再読に耐えうる」というのとは、もちろん別の意味を持ってる。

リプレイ性とは、プレイヤーが様々なゲームプレイを受け入れてくれるなど様々な意味合いから使われている。しかし改めてまとめると、どういうときに使っていくとわかりやすいだろうか?(なお、今回エントリはシンブルプレイに話を絞っていて、マルチプレイにおけるリプレイの意味はまったく取り扱ってない)
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いまごろの『Flowly』 thatgamecompanyのアクションをアートにする試み

 thatgamecompanyの第2作である「Flowery」を今頃クリア。「風の旅ビト」であんまりにも高い評価を得たおかげで今となってはその前段階の作品という印象はあるが、こっちのほうが印象深かったり。ってとこまで去年書いたまま半年以上放置してたものを今頃まとめた。

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ビートたけしが桐生一馬の幻想を殺す

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桐生一馬は『龍が如く』の世界では伝説の極道として長い年月を重ねている設定だ。しかし、プレイヤーである自分の目線からは年月による加齢なんてまったく見えないし描かれない。マリオやソニックみたいなあくまで記号的な存在と思う。最終章である6では48歳ということらしいが年齢に意味があるように思えない。加齢を描ききれていないのである。そこに現実で壮絶な経歴を辿ってきたビートたけしが立ちふさがることでいったい何が起こったか?

『龍が如く』シリーズは多数の俳優や芸能人・スポーツ選手をフェイスキャプチャーして採用しているということをちょっとした豪華演出とかそんなところに金をつかうなみたいな話が出てくるけども、広く見てみれば『LAノワール』や『クオンタム・ブレイク』、チョウ・ユンファを起用した『ストラングルホールド』、さらには小島秀夫の新作ではマッツ・ミケルセンが主演するなどなど、実際の俳優の存在感をビデオゲームで活かす流れがある。その意味で日本国内でもっともそこを切り開いている唯一のシリーズであると言える。

『龍が如く』シリーズでは初期こそは俳優や芸能人を声優で起用するまでだったのだが、シリーズを重ねるにつれて遠藤憲一など実力ある俳優の起用から、プレイアブルキャラクターに引退をすることになっちゃった成宮寛貴などを起用しつつ、段々と哀川翔、竹内力、小沢仁志といったVシネマのトップが起用。実際、Vシネマが勃興してゆく80年代末を舞台にした『龍が如く0』で竹内や小沢が存在感を示すというのはその大味さとも相まってハマっている。

では最新作『6』ではどうかというと、宮迫博之から藤原竜也、そして小栗旬、真木よう子、大森南朋と全員が単体で主演を張れる俳優たちが採用されている。ところが彼らの採用は前作のような『龍が如く』の作品世界を構築していく方向じゃない。それぞれが作品世界からはみ出てしまうぎりぎりのところにある。

その究極がビートたけしだ。一見現代ヤクザ映画のトップ『アウトレイジ』のとの無邪気なコラボに見えるが、『龍が如く』の世界に登場したたけしは不気味に均衡を突き崩していく。もちろんこの後「続きから」では『龍が如く6』のねたばれだらけだ。

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「Life is strange」タイムリープ&マジックアワー

中高生の青春物語とタイムトラベルの相性はよいと言われている。それはあの頃がささやかな後悔の積み重ねで出来ていて、それをどうにかしてしまいたいという感情が過去に戻るという意匠に重なるからだ。青春の光と影なんてありふれたテーマで、挫折を描いた映画も小説もたくさんある。だが、あの時代のほとんどの人間はボンクラで挫折を背負いたくはないし、そんな胆力もない。にもかかわらず、実際には何らかの挫折を背負わざるを得ない瞬間が数多く立ちふさがる。青春物語に時を戻すSFが絡むとき、たいていそんな影を帳消しにしようとする。

「さっきはああ言うことは言うんじゃなかった」「いや、ああ言っておけばよかったんだ」といったささやかな積み重ねは、それが大したようなことでなかったとしてもそう選択しきれなかった自分に降りかかってくる。今から振り返ればわずかな期間でしかなかったその時に、知識もなく度胸すらない中学生や高校生だったならばなおさら後悔は大きい。

主人公マックスはまさに知識もなく度胸すらない写真学科の女の子だ。一歩踏み込んで選択することをやり切れずに、後悔を重ねている。そんな彼女はある事件をきっかけに、時を巻き戻す能力を得てしまう。積み重なってゆく後悔を、彼女は時を戻すことで帳消しにする。だがしかし、マックスに事態を背負う胆力や、問題を決定的に解消するほどの能力が身についているわけではない。挫折を避け、青春の光と影の境を曖昧にしていくばかりである。

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『シルバー事件』HD  24区の父親(追加版)

 

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もぐらゲームスで再評価を行いました。

あらためて『シルバー事件HD』をざっくり振り返って思うことは、謎のままのウエハラカムイであるとか、FSOとTRO/CCOの政権争いであるとか、真実と事実が違うということではない。実に単純な話で、作品全体に暗に漂っている重層的な父親像である。(以下の文章はネタバレスポイラーまみれです)

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