“AlienMelon”ナタリー・ロウヘッドのゲームに触れれば、それまでの自分と同じではいられなくなるでしょう

はじめまして! わたしは葛西祝といいます。 “祝”と書いて “はじめ ”と読みます。「ジャンル複合ライティング」というスタンスで、ビデオゲームを中心としながら現代美術から文学、映画から格闘技まで越境するテキストを商業のメディアで作っています。普段はIGNGame*Sparkなどに寄稿しています。

さて本サイト「GAME SCOPE SIZE」は開始から12年続いている、ビデオゲームについてのテキストをまとめている場所です。代表的なテキストは、サイト上部の「PICK UP」にまとめていますので、もしよろしければご覧ください……。が、最近は商業メディアへの仕事にかかりきりで、ここに新しくテキストを書くことが遅れています。今回 “ゲームとことば”に参加するので、初めてわたしのテキストを読む方に向けた自分の紹介でした。

商業のライディングをやりながら、お金がもらえるわけでもないのに自分のサイトでテキストを作りつづける理由は、「普段じゃできないテキストの実験ができること」ことなど色々あります。ただその中には「商業メディアで取り上げ辛いタイトルや作家を紹介すること」も含まれています。そんな紹介でわたしが重視しているのは「そのビデオゲームを体験することで、以前と同じような自分ではいられなくなる」ものです。

商業メディアに掲載される多くのタイトルはページビュー(に伴う広告収益)やスポンサードなどかなり多くの都合によって成立しています。するとほとんどの場合、メジャーな企業によるメジャーなタイトルや、SNS上で話題となっているタイトルに収斂されやすいのですね(正直、『スイカゲーム』をブームの解析以外で必死になって語らなくちゃならないのは不幸ではないでしょうか)。

ゆえに、商業メディアで資本が回転する範囲で観測を続けていると、思ったよりビデオゲームが持つ表現の限界はおのずと決まってしまうように思えます。ビデオゲームは他メディア以上に現実とは違う体験を売りにすることは多いんでしょう。ですが、実際には人間の認識を変えてしまうくらいの体験はそんなにないのかもしれないな……と思う時があります。

たとえば『ゼルダの伝説 ティアーズオブキングダム』などは圧倒的な体験と言えるでしょう。ですが、それは本当に「そのゲームを体験したことで、昨日までの自分と同じではいられなくなる」ほどでしょうか。先日までの自分が見知っているある価値観を(ハイクオリティに)補強してくれる以上のものではないのでしょうか。昨日までの自分と同じでいい、昨日までの自分が知っている価値がまるでHD処理された映像みたいに綺麗でアップグレードされた形で登場すればいい、そんなゲーム産業の繰り返しに一部で興味が失せている部分があります。Steamでローグライトジャンルがあふれかえるくらい出ているのを見ながら、先行きを考えることは1度や2度ではありません。わたしは昨日までの自身と同じようではいたくないし変わらないことを他人と共感しあうようなことはごめんなんだという思いが常にあります。

そこでわたしが裏で追い続けているのが、商業メディアの資本サイクルから少々逸脱した場所にいるビデオゲームたちです。そのなかでもゲームクリエイターの“AlienMelon”こと、ナタリー・ロウヘッドの作品は、ここ10年で自分に影響を与えてくれています。

ナタリーのゲームはインターネットの領域とビデオゲームの境界線があいまいです。たとえば彼女の作品のひとつ『Tetrageddon Games』に触れてみてください。PCブラウザ上でプレイ可能な本作は、そんなあいまいな領域を端的に見せます。

ピクセルアートや実写などが混合したいびつなアートワークで彩られる、擬似的なPCデスクトップ。さまざまなリンク先からアクセスできる、ナタリーの他の作品。どこからがビデオゲームでどこからがナタリーのポートフォリオサイトでどこまでがインターネットなのか。そのすべての境界がありません。

現代の中~小規模ビデオゲーム(いまインディーゲームという言い方を避けています。わたしが抱えているある種の失望はそういう領域まで来ています。初見の方には伝わりづらいことかもしれませんが)ではPCのデスクトップを模したADVだとか90年代のインターネットを模したナラティブゲームだとか活況なんですが、それらと比較してもナタリーのヴィジョンは一線を画しています。

もともと彼女は純粋なゲームクリエイターというよりも、現代アートにおけるメディアアート分野のひとつ・ネットアートを主力としたアーティストです(この分野は日本でもエキソニモさんなどが有名です)。それゆえに、他のゲームのような古いインターネットやWindowsを再生するノスタルジックなアプローチから距離を取っているのかもしれません。 

特にナタリーの特性が凝縮された一作が『EVERYTHING IS GOING TO BE OK』だと思います。こちらは単体のゲームパッケージとしてまとまっているのですが、その体験の異質さはとびぬけています。プレイヤーはPCデスクトップ上にばらまかれたさまざまなミニゲームをクリアしながら、徐々に解禁されていく不気味なテキストを追っていき、徐々に見えてくる物語の真相を追っていきます。

可愛いウサギみたいなキャラによる、単純なアクションからアドベンチャーみたいなミニゲームの多くは良くプレイしてみると残虐な印象を残すものが少なくありません。その残虐さは、水面下で判明するテキストから理由がうかがい知れます。どうやら作家本人が体験した恐ろしいプライベートでの体験、その反映としての作品、昇華としての暴力、それらが見えてくるのです。 

ナタリーのゲームの多くは始まりと終わりというものすら曖昧です。それは私たちがインターネットに……膨大な情報がある場所に……ふらっと触れに来て……そして去っていく流れと同じようなものなのかもしれません。情報を見に来る行為に始まりも終わりもない。インタラクティブであるインターネット以降とはそういうものである。そしてインタラクティブメディアの帝王たるビデオゲームもまた情報が集積した状態が基本というものである……とでも言わんばかりの混沌としながら荒涼とした世界がそこにあります。

ナタリーのビデオゲームを最後までプレイするのは大変かもしれません。決して遊びやすいゲームではありません。始まりと終わりがわからない状態はわたしでも不安になります。さらに、現段階で日本語翻訳もありません。しかし、体験し終えたときはそれまでのあなたとは別になるんじゃないかなと思います。なんだがカルトみたいな言い回しですけど、わたしが言いたいのはは映画監督の黒沢清が語った言葉に近しいものです。

本当にいろいろあったなら、人は取り返しのつかない深手を負い、社会は急いでそれをあってはならないものとして葬り去ろうとするだろう。人と社会との間に一瞬走った亀裂を、絶対に後戻りさせてはならない」、「表現の極北から見出される鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させよう。これら二つが美しく共存するというのはまったくの欺瞞だ」そんな黒沢清の言葉をいつも考えます。

そして、わたしがビデオゲームで求めている体験というのはそれなんですね。それは何年もかけて、総計して1000時間もプレイするようなゲームじゃないかもしれない。でもそのゲームがもたらすコンセプト、視座、方法を体験したなら、それは実際のゲームプレイを終えた後も記憶や心の中でゲームプレイが続く。

わたしにとってナタリーのビデオゲームは、とりわけ『EVERYTHING IS GOING TO BE OK』とは、そういうゲームなんですね。いま、このテキストを書きながらも『EVERYTHING IS GOING TO BE OK』のゲームプレイは自らの心の中で継続しています。わたしのなかでは、本作に触れる前の自分に戻ることはないのです。

わたしはナタリーのビデオゲームについてあなたに伝えました、あなたは先ほどと同じ自分ですか。

“AlienMelon”ナタリー・ロウヘッド作品一覧はこちらから

2件のコメント

  1. コメント失礼します。
    「EVERYTHING IS GOING TO BE OK」の緑色のキャラクター?が湯浅政明監督のアニメーション作品に出ているキャラクターにとても似ている気がするんですが、偶然でしょうか。
    うさぎっぽいキャラクターは、「アドベンチャータイム」「ミッドナイトゴスペル」のペンデルトン・ウォードさんや「ビーとパピーキャット」のナターシャ・アレグリさんの作品に出てきそうな雰囲気がありますね。

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  2. たぶん偶然じゃないですかね……
    ペンデルトン・ウォード作品にみられるような、アンダーグラウンドなシーンにも知見があるクリエイティブにナタリー・ロウヘッドの作品も近いのかもしれません

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