8.映画・小説・漫画

海外ビデオゲームのファンに意味深く刺さるだろう小説3選

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ここのところの海外ビデオゲームに触れていると、意外なくらい描かれる世界や物語の根底に古典小説を想起させることが少なくはない。実際に製作者のインタビューでもインスピレーション先として名前を挙げていることも多い。とある小説はいかにしてビデオゲームに影響を与えたのだろうか?

 ということで今回は古典小説より俯瞰する海外ビデオゲームのイメージに関して。ちょっとした当ブログ・ゲームスコープサイズのベスト盤の意味も込みのエントリ。

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”セックスか殺人を知った子供”のモードとして眺める深夜アニメ・ライトノベル・それからJRPG(またまたまた追記あり)

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 最近は「ブラザーズ:二人の息子の物語」から「LIMBO」「papo&yo」などなどのパズルアクションを遊んでいたのだけど、面白いなと思うのは主人公がみな少年のジュブナイルにあたるような物語ばかりだったりすることだ。振り返れば2001年の「ICO」なんかも結果的にそうだったりするし、勝手なことを言えばちょっとしたこの傾向を考えるにアクションのメカニック、そして敵を殺しまくって経験値の蓄積による進行なしにほぼパズルを解いて進行するといった構成のそれぞれの純粋性ゆえに”世界を知らぬ少年の冒険”になるのだろうか?(もちろん、多くの例外が存在する。)

 対置して”敵を撃ち殺す”というメカニクスを搭載したFPSやシューターになると、「GTAV」から「bioshock infinite」に至るまで主人公は中年期に突入。そしてその後をどうしたらよいのかに戸惑っている。適当なこと言えばジャンルによる明確な目的や勝敗といったルールを持った世界で主人公になるのは世界や社会のメカニクスや役割を得た中年になるだなんて思ったりもした。(もちろん、これらは特殊ケースでもあるので例外はある)

 主人公に代表される子供(思春期まで含む)から社会的な役割を持った大人の目線の差の問題。外国(欧米圏)のゲーム(ないし漫画から小説映画)ばっかり見てると子供と大人の目線や役割というのが完全に分かれている。そうした目線になって振り返ると日本の一大サイクルを気づいているライトノベル~深夜アニメ、もしくはJRPG周辺の思春期なのに世界を救う戦いだのの旅路を行く主人公たちというのはオレには露悪的に言って”セックスか殺人を知った子供たち”の一大絵巻となっているかに見えるのである。というわけでド偏見だらけの外野席からのラノベ、アニメ、それからJRPG界隈に関しての雑記。

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ビデオゲームズ・チルウェイヴ

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 昨今のインディーズゲーム界隈に関しての言説には、そのままインディーズのロックバンドのDIY精神やら構図やらをアナロジジャイズすることが少なくない、っていうのに乗っかるわけじゃないが、いまやビデオゲームシーンのクリエイティビティ面への注目(決して現在のそれがインディーズゲームの本来の役割や立ち位置を見失いを意味してねえよという言及だって少なくない)が集まるなかで、去年から今年にかけて評価され、そして遊んだゲームの傾向の一つが、とある音楽ジャンル傾向に似通ってる感じを受けたのだった。

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「the last of us」「the walking dead」などアメリカのポストアポカリプスの精神に繋がる文学・コーマック・マッカーシーの小説~映画「悪の法則」まで

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 もう北米のビデオゲームシーンから世界の終わりをサバイブする体験が数多く繰り出されたのだが、ここのところ「the last of us」「the walking dead」ゲーム版などは単なるゾンビが覆いつくし、破滅した世界を生きるというジャンル映画やアクションやアドベンチャーといったジャンルゲームの領域を超えた構成を取っており、そしてもちろん「主人公が追いつめられた状況の中で少女と出会い、生き抜く中で擬似的な親子関係を紡ぐ」というところまで似通っている。

 さらにこの2作がインスピレーション元にしているのでは?と一部で語られているのが「the Road」という小説だ。これは世界がどうやら崩壊した中を、名もなき父と子が残虐な現実を旅することを詩的に描いたものだ。

 しかし、この小説は単なるポストアポカリプスってことじゃなく、もしかすると逆にアメリカにおけるポストアポカリプスの表現の奥底を付いている側面があるのかもしれない。というのも、ポストアポカリプス下の残酷さと抒情性の共存とは、この小説の作者であるコーマック・マッカーシーの小説全てに繋がるテーマであるからだ。

 ということで今回は近年数多く見かけるポストアポカリプスとコーマック・マッカーシーの小説が繋げるアメリカの精神的光景のひとつに関しての考察。

 

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文明は如何にして拡大し、世界はいかにして征服されるか?「シヴィライゼーション」と「銃・病原菌・鉄」

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海外ロングセラータイトル「銃・病原菌・鉄」とビデオゲーム「シヴィライゼーション」ミックス感想と考察

 現代世界の成立において、結局のところ西洋文明・それからアメリカが切り開いてきたものが大抵の方法論を形作り、世界に広げてきた。しかし逆に見れば、ではなぜ他の優れた文明ではなく、西洋文明のみが世界に拡大していき覇権を握ることができたのだろうか?

 今日の発展した文明の中でも、大昔からの生活様式から変わらないニューギニアへのフィールドワークを行ってきたジャレド・ダイアモンドが現地の文化と人間と接する中でそうした疑問を持つに至り、西洋文明だけがいかに世界的に拡大するに至ったのかを考察した成果として「銃・病原菌・鉄」という本にした。

 ではいかにして西洋文明だけが世界的に拡大することが可能だったのか?の考察の軸とはタイトル通りの銃や鉄の生産による軍事力から、ヨーロッパの人間が耐性を備えている病原菌の媒介によって、耐性のない現地の人間が感染してしまうことなど植民地支配にアドバンテージがあったことに加え、植民地にした後での牧畜・農耕が可能な地域や、アメリカやアフリカ大陸の南北への広がりと比較してユーラシア大陸の東西の広がりの大きさという地理的要因などが大きく語られている。

 そしてなぜニューギニアなど文明の栄えた今日でも旧来からの生活を続けている国があるのかというと、その地域では西洋の方法による牧畜や農耕によるコロニー化がとてもやりにくい場所だった、ということから植民地に出来なかったという。また、同じユーラシアにて大国となっていた中国がなぜ拡大しなかったのかと言うのを、むしろ中国は権力が一極にある強固な社会体制であるゆえに流動が無かったためだと考察している。

 さて西欧文明的なものの先端と言っていいビデオゲームでさらにそういう文明・文化の発達と侵略といった歴史をシミュレートしたものと見える「シヴィライゼーション」などを遊んでいるとその勝利の目的が単なる他国を侵略して征服することだけではなく文化的・経済的な勝利というのが本作のルールの特徴なのだが、このゲームデザインとその目的はまさに西欧文明発の拡大の最終的な勝利の形だ。

 そこには西欧文明のアドバンテージである「銃・病原菌・鉄」という象徴的なアドバンテージから地理的なアドバンテージを無視して、クレオパトラからガンジー、徳川家康などが同じルールの上で闘うことなった世界の場合どうなるのだろうか?そこでは奇怪に面白い展開を見せるのだ。すなわちガンジーが勝利のために核を開発しリンカーンの都市を攻撃し、クレオパトラがローマ皇帝たちに戦闘機で爆撃を行うという光景や、アフリカの族長が世界銀行を設立し経済的な勝利を上げるという凄まじい世界となり、全ての国がこの現代世界のルールに乗っ取り競争させるグローバリゼーションというものを強烈に戯画化させたものに映る。というよりそれはオレの選んだ偉人のゲームプレイの成果なんだけど。(みんなやってるはず。)

 というわけで西洋文明史観と言うのがあったりまえながらあまりにも強いわけで、「銃・病原菌・鉄」なんかを読みながらその思考方法や歴史の結果まで含めてどうしてか「シヴィライゼーション」を想起するに至り、様々なゲームのジャンルがあるがなんにしても歴史・軍事・経済といったテーマのシミュレーションほどに向こうのロジカルな意識を感じるものはない。

 オレがどっかで見たいのは曼荼羅うんぬんから世界構築がスタートするスタートアジアの仏教など宗教観満載のシミュレーションとか、現実から屈辱を受けた狂人が歴史を覆すために偽史の帝国をつくりテロリズムを行うみたいな、つまりバイオショックインフィニットのカムストックが主人公のコロンビア発展シミュレーションみたいなものという。いや書きながら前者にはゴッドゲームといって「ポピュラス」があり、アジア世界のシミュレーションのルールといえば「カオスシード」などあったのに気付いた・・・
 

「街 運命の交差点」七曜会の設定の元ネタ小説「木曜日だった男」

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 未だにコンシューマーの範囲では伝説的な評価をされるサウンドノベル「街」。そのメインシナリオの一つ「七曜会」に元ネタとなる小説があったというので読んでみた。

 それは「木曜日だった男」という小説で、「ブラウン神父シリーズ」を代表作とするイギリスの探偵小説家・批評家であるチェスタトンによって1905年に書かれた作品なのだが、その内容は探偵小説家らしい一見ミステリー小説の体裁に見えるが、途中からファンタジーとも形而学的とも、皮肉とも付かない展開を見せる内容であったりする。

 まず概略だけ書いてしまえばこれはもう「街」の方が盗んだ設定は本当にそのまま。書かれた時代である20世紀初頭のイギリスが問題としていたアナーキズム(無政府主義、乱暴に今で言えばテロリズム)の秘密結社に警察である主人公が、詩人を名乗っていスパイとして潜りこむという内容なのだが、そこでは月曜日から日曜日までをコードネームに持ち、日曜日がそのヒエラルキーの頂点として指揮をとっており、主人公は木曜日の名前を授かることになる。篠田正志と一日違い!

 さて街の「七曜会」では人が隠し通している社会的地位に関わる過去の犯罪歴などをネタに強請ることで、裏ネタを買い取らせるために莫大な金額を請求するか、七曜会に加入させる代わりに一万円で買い取らせるかというもので、元ネタの「木曜日だった男」の社会背景がアナーキズムと言うのに対し、こちらは90年代中期の日本らしいオウムまたは統一教会といったカルト宗教イメージに加えマルチ商法・ねずみ講といった古いタイプの詐欺を元にしている。何故かこのあたりを書きながらあの頃のたまごっちの匂いを思い出してきた。

 しかし「木曜日だった男」もそんな順当な当時のアナーキズムを元にした探偵小説なのと思いきや別に脅したり破壊活動に講じることはない。それどころか通常のシナリオの展開よりも遥かにラディカルな展開を見せるのである。というのも、主人公である木曜日が、トップの日曜日以外の医者や教授などを名乗る他の曜日の人間と接触していく、という進行は盗んだ元の「七曜会」と同じなのだが、ところがそんな他の曜日の人間たちの正体も全員スパイ目的の警官だったのだ。なんですぐわかんねえんだよ!

 だったら日曜日というのは何者なのか?を6人全員で問い詰めようとするのだが、その時には日曜日は気球で脱出。6人は必死で追いかけていき、遂に日曜日と相対するのだが、そこには現実と幻想が崩壊し木曜日は一つの神を見ることになるという、「七曜会」のラストの方でマルチ商法というかなりがっかりなオチなのに何故宗教的な領域の話になっていくのか?の元ネタの方はその上を行く相当な展開だ。これは「神は世界を6日間で作り、一日休んだ」というキリスト教(または、ユダヤ教)の逸話のチェスタトンのパロディではないかと読め、では日曜日が全能の神というのは世界が作り終えられた後を見守る位置ゆえなのだ。つまり元ネタの方がエスプリ効かせ倒してふざけてるもので「七曜会」の方がバックグラウンドの学識なしで大真面目に作り過ぎてどこかボケてるものだった!ということが比較によって明らかになっていくのだった。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫) [文庫]

”偉大なゲームデザイナーたちが持つ偉大な映画監督たちと同じ能力”GAME・SCOPE・SIZEリミックスバージョン

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 ちょっと前に海外サイト1UPに上がった「6人の偉大なゲームデザイナーたちが持つ偉大な映画監督たちと同じ能力」という企画がGIGAZONEにて翻訳されたものがあったが、これも映画を目指したビデオゲームの文化成熟のたまものということでこんな比較も可能に・・・かと思いきや今よくよく読んでみるとけっこう適当。

 映画にも詳しい人ならどう適当なのかとっくに分かってると思うけど、同じ能力って作品の雰囲気やものづくりのスタンスで一致しているということなのか、それともジャンルの慣例を越えていく仕事をしたこと同じ能力といってるのかがごっちゃになってる。モリニューとコッポラが「結果を恐れず新しい領域に踏み出す能力」から同じ能力ってその面で一緒にしちゃダメだろ!モリニューもコッポラも他に例えられやすいクリエイターいるだろ!

 ってことでまあ元々が話半分の適当企画とはいえ、やはり興味深いものはある。それなりに映画もゲームも多く触れていると確かに触感や印象が結果として似通っているのは数多く存在する。というわけで今回はオレ個人の感想でチョイスした「偉大なゲームデザイナーたちが持つ偉大な映画監督たちと同じ能力」です。

 基本は作品の空気感やスタンス、作家としてのバイオグラフィなどが近似してるのを選んでみるけど、やっぱそこまで厳密ではなく話半分な感じの、まあ気楽な適当企画ということで。とりあえず名の知れた日本人クリエイターのみになってます。

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「記憶喪失」からの回復と、世界を再認識する映画・アドベンチャーゲームは何故「記憶を失う」のか?・Ⅱ

 第二回は前回のアドベンチャーゲームの記憶喪失視点を援用した、簡単な映画批評にシフトするという企画。今回は近年で「記憶喪失とその回復」というテーマでの良作ということで原恵一監督の「カラフル」とレバノン内戦時の記憶を探り直すという「戦場でワルツを」のもんのすごいふり幅ではある2本を、ゲームスコープサイズで見立てたエントリ。

 そうそう、このブログは基本的に結末に至るまで含めて内容について触れてるので、未見の方は注意。つーかもうこのエントリタイトル時点でばらしてるようなものと一応書いておきつつ、未見の方にも興味持てるような視点で綴っていく。

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