インディペンデント それはちいさな孤高の山をつくること

インディーゲームイベントBitSummit Let’s Go!!のピグミースタジオブースにて、ラショウさんが新作の『ボコスカチェス』を展示し来場者と対戦している姿が見えた。デジタルゲームがほとんどを占める会場のなか、代表作『ボコスカウォーズ』シリーズ新作をなんとアナログゲームとして出展し、畳の上でプレイする姿をライブで見せる姿は孤高というほかない。ただそこは会場であるみやこめっせ内の壁際である。まるで現在のインディーゲームを取り巻く寓意的な風景みたいだ。

きみの愛馬が!ずきゅんどきゅん走り出しー(ふっふー!)ばきゅんぶきゅん かけてーゆーくーよー!こんなーレースはー はーじめてー(321 ふぁいと♡!!)歌声が『ボコスカチェス』のブースの遠くからひっきりなしに聴こえる。『ウマ娘』の歌だ。 ご存じモバイルゲームの巨大企業サイゲームズが、買い切り形の新作『プリティーダービー 熱血ハチャメチャ大感謝祭!』を巨大なブースで出展している。和氣あず未さんや高野麻里佳さんたち主演声優の歌声が他の企業やクリエイターのブースを飛び越えて響き、来場者を捕食しようと永遠に繰り返されている。

きょうの勝利の女神はあたしだけにチュゥする!虹のかなたへゆこう!風を切って 大地けって!きみのなかに光ともす! 歌声が会場を覆うなか、ラショウさんはコマを動かした。

芝浦工業大学の教授を務める小山友介さんによる著書「日本デジタルゲーム産業史 増補改訂版: ファミコン以前からスマホゲームまで」は国内のアーケードゲームからPC、そしてコンソールからモバイルと拡大したビデオゲーム史を包括した書籍として優れている。特に興味深かったのは、第1章の後半に書かれた「市場参加者の行動原理」という指摘だ。

連綿と続く広大な歴史を精査に探ればひとつひとつの企業や個人は自身の行動原理によって支配されていることが見えてくる。小山さんは任天堂の行動原理は「玩具」、セガは「アーケード」という風に指摘しながら、「自社の周囲の環境を認識し、自社の限られた資源の中で少しでも競争での勝率・生存率が高くなるような決断を行っている」と各企業の行動原理について語っている。

とはいえ行動原理とはあくまで「著者の直感のようなもので、学術的な意味で実証できるようなものではない」と語り、本編ではあまり押し出していない。にもかかわらず、この考え方は各企業やクリエイターが過去に起こした多くの物事や、そして未来に起こりえることを想像させることに優れている。冒頭に行動原理への指摘が書かれたことが、本書が単なる歴史の包括に留まらない示唆を与える一冊にしたと僕は考えている。

「行動原理」 その言葉をしばらく考えながら「じゃあ、いま見えているこれはどういうことなんだろう」と思うのが現行の日本インディーゲームシーンでもある。いまのBitSummitに行ってみればいい。インディーゲームとは巨大な産業構造から独立したゲーム開発を意味したが、現在はその意味から遠い。

会場を歩くと大手企業の参入があまりにも増えている。コンソールだろうがモバイルゲームだろうがAAAの頂が極端なくらい高くなり、メジャーシーンで中間領域としてのビデオゲームの企画が難しくなったことがこうしたイベントに如実に出ている。現在のインディーゲームシーンとは、見方を変えればメジャーシーンにおける中間領域の企画の受け皿なのだ。

さらに新規参入しやすさから大手出版社をはじめ、放送業界からもTBSがゲーム事業を発表したことから今後はこうしたイベントに参加する可能性も少なくない。そのことを咎めるというより、もはや現在の産業の構造ゆえに仕方ないことだとは思う。

そうした環境変化のせいか、取材のあいだ行動原理がインディーであるという人間やグループに遭遇することがかなり減った。別件でインディーゲームが出資者を集めるプレゼンだとか新興の企業によるタイトルなどを見たが、なにかスタートアップみたいな行動原理で動いているように映った。すでに国内の若手インディーゲームクリエイターの一部を見ても、明らかにスタートアップのプロセスを内面化している。

ほとんどの出展者の行動原理は現在の市場の趨勢による「少しでも競争での勝率・生存率が高くなるような」打算的な帰結にすぎない。徳岡正肇さんは「『インディーゲームとは何か』という問いに対して,曖昧な回答しか存在しない」と現状を語ったが、僕は市場の変化がジャンルの定義の曖昧さを加速させたように思う。定義が曖昧なものは危険でもある。定義は分からない場所でなにか行動したときなんらかの混乱が生じるからだ。漠然とした場所に参加してもっとも苦しむのはおそらく無垢な作り手である。

そんな最中、ラショウさんを見ると、そもそものインディーの行動原理がどういうことかを思い知らされるのだった。

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インディーの行動原理とはなにか。それもラショウさんが漫画家・ゲームクリエイターの香山哲さんと書いた著書「すこし低い孤高」を読むのが説明が早いかもしれない。あの本にはふたりの軽い語り口のなかで「日本におけるインディペンデント」がどういうことかほとんどすべて言語化している。

ラショウさんの経歴そのものが独立の行動原理が何を示している。自作ゲーム『ボコスカウォーズ』を開発した80年代。同時代に堀井雄二さんや芸夢狂人さんなども自作ゲームを作っていた時代から活躍しているが、巨大エンターテインメント産業であるビデオゲーム界からの距離を徹底して取っていることに改めて驚く。

80年代には堀井さんをはじめ、自主製作から巨大産業へ足を踏み入れるクリエイターが数多く存在した。それは大きなビデオゲームの歴史として書かれる物事なのだろう。しかしそんな大きな歴史から外れた場所でゲームを作り続けたラショウさんのキャリアは、今こそ意味深い。

およそ40年近くに渡り、巨大産業としてのゲーム業界から距離を取り、作家としての名前を誇示し活動を続けていることは異質だ。プレイステーションとセガサターンが火花を散らす時代にラショウさんはイタチョコシステムを設立し、今日までに『あの素晴らしい弁当を2度3度』はじめ膨大なPCゲームを作り上げていた実績は、日本にインディーゲームの概念が持ち込まれる以前から「インディペンデントがどういうことか」を考えさせられる。

産業から離れた態度もゲームデザインに反映されているかのようだ。ドローイングと実写の写真などを組み合わせたアートスタイルに、歌を組み合わせたスタイルを90年代にやっていたのを見ると、後の時代のクリエイティブを先行していたような雰囲気もある。

ラショウさんの解釈を難しくしているのは表現活動がビデオゲーム開発に留まらない多様な表現をやり続けていることもある。漫画のほかに人形制作、仮面による舞踊、オリジナルの浄瑠璃制作から店舗運営など枚挙にいとまがない。活動すべてをひっくるめ、その全貌を総括した批評は国内では存在しない。ラショウさんは最近は海外でドローイングや舞踊を含めた展示を行っているのを見ると、あちらのほうが活動全体を包括していたりするのかもしれない。

産業としてのポップカルチャーがおおよそのタイトルの消費の構造も決める、だからそこから距離を取った独立した作品は中心となる産業に対しておのずと批判性を持つ……みたいな話ではないが、ラショウさんのキャリアはそんな単純なものでもないような気がする。

ラショウさんの漫画「主なチョ作」より。(画像は試し読み可能な範囲から)

飯田和敏さんや須田剛一さんがラショウさんへのリスペクト(なにせ『Travis Strikes Again』にて作中で実名で言及している)を語るのもわかる気もする。やはり過去にそうした独立した作家が存在してこなかったから。産業構造から外れ、インディペンデントの作家として生きていくことは音楽や映画(もしかしたらプロレス)が先行していたが、ビデオゲームでその事例はまだ見えていなかったと思う。

いま国内で独立した作家が自主制作したゲームを販売していく市場ができたわけだが、結果としてそこに巨大な産業に対するアゲインストとしての表現があるのか……?と問われれば、残念ながらほとんどないというほかない。むしろ産業の一環としてインディーゲームのフィールドが取り込まれていくことで、ある種の批判性が日に日に見えなくなっていくのが今だ。

そんなとき、ラショウさんの活動を振り返っていると、もう誰も正確には言葉にはできなくなりつつある「インディペンデントとはなにか」という答えに戻れるように思う。40年近くに及ぶ彼の活動から、産業としてのビデオゲームに対する批判性を見出すことはたやすい。そして今もまだその批判性は産業のサイクルに取り込まれたインディーゲームシーンに対して(残念ながら)有効なのである。いいんだ、インディペンデントとは小高い丘であればそれだけで。

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