デトロイト不気味の谷と俳優たち

『Detroit: Become Human』は初期の3DCGのビデオゲームやアニメーションに触れてきた世代にとっては、意図的にデザインされた不気味の谷と戯れる体験でもある。

バグやグリッチはプログラムのミスだが制御してデザインに組み込めばクールな表現になったり、ジーンズの破れも制御して組み込めばファッションの表現になるのと一緒だ。そして現代の3DCG キャラクターは、実際の俳優たちの演技の中で制御されている。なので不気味の谷が意味を持つ。いま3DCG の空間の中のキャラクターと俳優は、いったいどんな風にその存在を評価されるのか?

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Depression(抑鬱)はいかにオリジナルを意味しなくなったか

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いつからビデオゲームはDepression(抑うつ)で溢れかえるようになったのか?

最近の新作のインディーゲームでは少なくない頻度でこのテーマの作品が発表されるほか、昨年にはなんと『Hellblade: Senua’s Sacrifice』が発表。これはDepressionとはもっとも遠いジャンルのはずのスラッシュアクションを製作してきたNinja Theoryまでも精神の内部に潜り込むことをテーマにするという、スラッシュアクションからすればある種歴史的なことかもわからない。

サンプリング・リミックス。オマージュ、パロディ。コピー&ペースト。複製や2次創作で溢れかえるのことに際限がなくなるなか、いまさらながらオリジナルとは何なのだろうか。うんざりするほど繰り返された議論だが、いまだに手堅く解釈されるのは作家本人の精神や個人性を反映した作品であることだ。

どんなに複製で溢れかえるなかでも作家本人そのものだけはオリジナル、自分自身をさらけ出すことこそオリジナルというような。しかし、正しくオリジナルであることとはロジカルで、テクニカルな部分は多分にある。自分は作家の粗雑な感情や精神にフォーカスすることをもってオリジナルを定義するのは、瞬間的には面白くとも、賛同しすぎないようにしている。

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2017年にゲームメディアで書いてきた記事ハイライト

 

今年はメディアでかなり書いていたので自己紹介などで大きく「GAME SCOPE SIZE」を喧伝しているわりに本体のここがあんまり更新できてないのでどういう自己プロデュースだって感じになってるので、2018年は充実させていきます!と前置きしつつ、2017年にさまざまなメディアで書いた記事のハイライトです。

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巨神獣とイヴァリースのヘイトコントロール・ゼノブレイドとff12のキャラ立たせ方

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現在のMMOメカニクスのシングルプレイRPGでは、ヘイトコントロールがキャラを立たせていたのかもねという小話です。

2017年はリマスター&ゲームデザインの調整、BGMの再録が行われた『ファイナルファンタジー12 ゾディアックエイジ』とモノリスソフトによる『ゼノブレイド2』が揃ってリリース。いわば2006年以降の日本のシングルプレイRPGにMMORPGのゲームメカニクスが入り込んでからの10年というちょっとした総括みたいなところがある。今年この2つを遊びつつ、そういえば未知であった「ヘイト」の概念を、今ではMMORPGから遠いゲーマーでも比較的理解されているよねと思ったのだった。

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“PCとの対話”から振り返るドラクエとFFの差

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長らくコンソール中心で遊んできた身なのでPCゲームに移るのはだいぶ遅かった。ちょうど国内でのコンソールでのゲームデザインが煮詰まってきたのを感じていたのもあって、移った当初は正直かなりの解放感があったのを覚えている。

そんなふうにPCで海外の様々なビデオゲームを遊んだ中で、最もコンソールとは異なると感じた点が一つある。非常にシンプルだ。こんなことは今更かもしれないけれど、PCとの対話である。あらためてPCとの対話という観点から振り返るとビデオゲームのストーリーテリングへの解釈がずいぶん様変わりすることに気付く。

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国道140号線DRIVING SIMULATOR

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かなり前にちょっとした休みが取れた時に昔からの友人と埼玉県の秩父にある三峰神社に車で行った。国道140号線に入り、しばらく運転していくと本当に景色が山と木々というとてもシンプルなものになっていくのもあって、いろいろ会話をする。話題が途切れればみんな静かに窓の外の風景を眺めていたりする。

ドライブの最中というのは後になって思い出せないような本当にしょうもない話しかしない。よく考えるとドラマや映画なんかでやけに重要な話をするシークエンスにどこかしらの車中でなんてありふれているけど現実にはあまりないわけで、考えてみればタランティーノの映画がとくに伏線にも繋がらないような無意味な会話をあえて入れるというのは映画ではびっくりすることなんだけど、現実では毎日あたりまえに出くわしている。

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初代聖剣伝説「マナの神殿」は誰もリメイクできない

Nintendo Switchで『聖剣伝説コレクション』がリリースされたのもあり、ひさしぶりに聖剣伝説シリーズ関連の音楽を聴いている。

スクウェアのピクセルアート技術が乗っていたFC-SFC時代。聖剣伝説シリーズの全盛期と言える3作目まではウェットな物語に感情移入を促すような作り方を特色にしていた。しかしあらためてゲームボーイの初代聖剣伝説のBGMを聴いていると、ひとつだけ異色の楽曲が存在する ことがわかる。最後の場所であるマナの神殿の音楽だ。

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『For Honor』で思い出した『北派少林 飛龍の拳』とカンフーの心眼

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ひとは6歳までに遊んだビデオゲームに縛られ続けるという呪いにかかっているという話を今思いついたのだが、最近はふっとした瞬間に『飛龍の拳Ⅲ 五人の龍戦士』のOPテーマが脳内で鳴り響くのでいろいろと思い出していた。カルチャーブレーンの最盛期が自分の幼稚園から小学生に上がるころまでに重なっていたのだ。たいていの人にとってマリオのほうが馴染みのある隣人だろうが未だに自分にとっては外国人のままだ。当時スーパーマリオを3面から先に進められなかったからだ。リュウと聞けば『ストリートファイターⅡ』ではなくいまだに『スーパーチャイニーズ』の2P側の方を思い浮かべるくらいに幼少期はそっちのほうに馴染んでいたのだった。

それよりも色々と知った今、振り返ってみればあのゲームシステムは洒脱だったんじゃないか?そう、『飛龍の拳』の目玉の格闘システム、心眼システムによる格闘シーンである。あれは今考えればあそこまでカンフーの攻防をプレイヤーが体験し、再現したシステムは無かったんじゃないかとおもったのだった。

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「リプレイ性」の評価

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ゲームレビューでお金をもらうことを少しやっているし、ちょっと海外などの公式なメディアが行っているレビューも参照している。そこで気になっているのは、リプレイ性(Replay value  Replayabilityとも。リンク先には今回記事の内容が大体詰まってる)という評価の使いどころだ。総評にリプレイ性の高さを挙げているレビューはよく見かける。

それにしてもリプレイ性とはこのジャンルらしい評価である。たとえば小説などで再読性という部分で評価が行われることはあるのか、とざっくり検索で調べると「再読に耐えうる」のが名作である、「謎を解くために再読してしまう」などなどで評価していくことは多い。

でもそれは二次的な評価であり、まず一次的な書評で「再読性が高い」とか、読者が読むごとに様々な読み方をすることを期待した評価は(自分の見た範囲では)そんなにはないはず。いっぽうビデオゲームのリプレイ性というのは名著の「再読に耐えうる」というのとは、もちろん別の意味を持ってる。

リプレイ性とは、プレイヤーが様々なゲームプレイを受け入れてくれるなど様々な意味合いから使われている。しかし改めてまとめると、どういうときに使っていくとわかりやすいだろうか?(なお、今回エントリはシンブルプレイに話を絞っていて、マルチプレイにおけるリプレイの意味はまったく取り扱ってない)
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いまごろの『Flowly』 thatgamecompanyのアクションをアートにする試み

 thatgamecompanyの第2作である「Flowery」を今頃クリア。「風の旅ビト」であんまりにも高い評価を得たおかげで今となってはその前段階の作品という印象はあるが、こっちのほうが印象深かったり。ってとこまで去年書いたまま半年以上放置してたものを今頃まとめた。

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