『デス・ストランディング』ある島の可能性

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自分がとある小説を読んでいるあいだ、テキストから想像していた風景が、視覚メディアにそのまま登場する体験は初めてだ。それをまさかの話題作がハイクオリティで実現していた。

ここに書いてあることはビデオゲームと小説のふたつの作品を通して、歪んだ形である価値観から距離を取りながらも、その価値からは手を切れないことについてである。

(エンディングまでのスポイラー有)


かつての“男らしさ”も変わりつつある時代のなかで批判されることも珍しくなくなった。様々な意味で害悪だと見られるそれは、どうすればどろどろとした毒や呪いのような姿が良く見えるのか?

フランスの小説家、ミシェル・ウェルベックの作品を読むと、そうした男らしさの価値に捉われたままの男が落ちこぼれ、皮肉に見つめるテキストによって、厭世的な視点で、嫌な形でそれを浮かび上がらせているのがわかる。

「世界の終わりのあと僕は電話ボックスにいる」この言葉で始まる彼の小説『ある島の可能性』はSFの形で歪みを浮かび上がらせる。茫漠とした、遥か未来の世界にて、デミクローンの主人公ダニエル24(数字はクローニングされた回数を指す)が、ずっと昔に存在した、オリジナルのダニエルについて調べてゆく物語だ。未来世界でクローニングされた人々は感情も、対人関係も失われている。

その描写からはディスコミュニケーションで、茫漠とした風景を想像する。ダニエル24が自分の過去を探したり、他のクローニングされた人たちと遠くから会話したりする。

『ある島の可能性』映画版 未来編の映像

『デス・ストランディング』の茫漠としたオープンワールドと、誰とも触れ合わない登場人物たちの光景からは、ずっと『ある島の可能性』の世界を思い起こさせた。現実世界が荒野となり、直接触れ合うことがないものの、他人がどこかに存在してうっすらと関わっているという風景を基調としている。旅の中で過去を見ていく。それは自分がテキストから想像した、ダニエル24の生きている未来世界の風景そのものだった。

『ある島の可能性』は架空の世界をさも本当のように感じさせるためのSFではなく、ウェルベックらしい厭世感を表現するために選んだというべきなのだろう。あらすじはダニエル24が、フランスにてコメディアンと映画監督として社会の地位を気づき上げたオリジナル・ダニエルの華々しい経歴やだらしなくセックスに執着した過去を見つめる。オリジナルのダニエルが成功の一方で若い女優とのセックスにアイデンティテイのほとんどを見出していくのを、2000年後のクローン・ダニエル24に感情を失った目で見られ続ける。

対人関係も、感情も性欲も切り離されたクローンがうんざりするマチズモに取りつかれたオリジナルを遥か遠くから眺めている。ウェルベックの名前を広めることになった『素粒子』から繋がったテーマだ。

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『ある島の可能性』ドイツの演劇版

“デス・ストランディングが起きる前から、人は触れ合うことを恐れ始めていたのかもしれない。当時の記録で見つけた話だ。若い世代を中心に “セックスのない生活”を求める傾向が強くなっていた。他人に対して性的欲求や愛情を抱けないアセクシュアル(無性愛)と呼ばれる人間が増えていた。生殖行為そのものをしなくなり、性を楽しむこともしなくなってきたのだ ”

中盤あたりで手に入る心理カウンセラーによる「アセクシュアルな世界」のドキュメントを読みながら、『デス・ストランディング』と『ある島の可能性』の符号について考えていた。表向き “繋がり”というポジティブな方向を見せているが、逆に厭世的なトーンをゲームプレイで感じ続けていた。

小島秀夫氏のビデオゲームはアンビバレントである。世界観とゲームプレイ。没入とメタ。相反する要素の問題をそのままに商業でゲームを成立させてきたひとりで、ゲームを作るごとにアンビバレントさは拡大していく。

考えてみれば白兵戦をして当然な時代のビデオゲームにて、軍人が非戦闘をするというシリーズを代表にしているため、昔からわかりやすい戦闘をして進めていくものでもなかった。MGSも最適なゲームプレイは非戦のゲームであり、実のところ『デス・ストランディング』はそこから変わらない。

繋がりがテーマだという『デス・ストランディング』は一見ポジティブなコンセプトに思えるが、小島作品のアンビバレントさを最大にしたのだと感じる。銃撃戦や接近戦のマルチプレイを否定し、直接はCo-opしたりしないものの、しかし誰かほかのプレイヤーが確かにそこにいる。梯子や橋が置かれたり、知らない間に道ができあがっていることなどそうだ。

それはサムがブリッジズや配達する人々と対話しているが実体はおらず、そして死んだ人たちであるBTも目に映らないがそこにいることに重なる。それは自分の中で『ある島の可能性』から醸成していた厭世観に重なっていった。

これまでのような銃撃戦や白兵戦を無くしてゲームは成立するのか?実験的な試みを導入し、抽象的なテーマによる、飛躍した体験を生もうとする。しかし実際には堅牢なゲームデザインによって、思ったよりも安心してゲームプレイできる。

そして、飛躍が止まる。繋がりを求める体験から逆算した結果、配達のゲームプレイが生まれたと思うが、非戦闘を謳いながら事実上『MGS』のゲームプレイから極端には変わらない。慎重な移動をし、戦闘を避けて進み、ボス戦をする。これまでのコントラストを最大にしたものだ。

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第一次世界大戦の戦場でクリフと戦う演出から、「過去、人間は棒を持って争ってきた」表向きのコンセプトを見せる。ここは人類の歴史上起きてきたことと、ビデオゲームの歴史上、FPSやTPSの舞台として選ばれてきたものふたつの意味を重ねているのだろう。

しかし自分にはむしろ、「銃撃戦を否定する作りだが、しかしとてもタイトにシューターや戦闘も仕上がっている」アンビバレントさに注目する。『ある島の可能性』にて、かつてのオリジナルのダニエルが年老いていきながら、若い女優エステルとのセックスにアイデンティテイを求め続け、自分の子供を作ることについてぞっとするとも語るような、ねじれたマチズモの手触りを思い出した。

後半には配達のバリエーションでゲームプレイのうねりを作るのではなく、巨大BTとの銃器を使った闘いに集約されることからそう思う。非戦闘を謳う内容でありながら、根本的なそれとの手を切れなさ。自制的な構成に見えながら、肝心の意識を批判しきれないところに『デス・ストランディング』の爛れた美しさがあるかもしれない。

いつもテクノロジーとフィジカルの関係があり、それから……

『デス・ストランディング』ではフェティッシュともいえる肉体への描写やインタラクションが、これまでの『MGS』シリーズなどと比較しても強いことがある。重たい荷物を背負い、時雨やBTに襲われどろどろに身体を汚し、荷物を納品し、ようやくセンターでシャワーを浴びた時。

『MGS』シリーズを振り返っても、初代からプレイヤーに主人公のフィジカルを想像させる操作体系やシナリオの展開があった。いずれもテクノロジーの下に管理されたフィジカルが追い求められている。コンソールの処理能力が増し、シリーズを重ねるごとに、精微な操作と共にプレイヤーにキャラクターのフィジカルを感じさせるデザインを強めていく。ビデオゲームが生の人間を取り扱うことを、テクノロジーの下にあるフィジカルに落とし込むことをおそらく自覚している。これはサイボーグ化とも違う、小島作品にしかないものといっていい。

MSXからPS1の時代までは直接それを感じさせることはなく、ゆえに最初の『MGS』がドラマティックな部分とほどほどのゲームプレイが 少なくとも自分は思う。

PS2以降、表現力が増加してからスネークや雷電らのフィジカルを生々しく感じさせるデザインが強まっていく。『MGS2』以降のエルード、主観視点に切り替えての射撃もそうだが、『MGS3』になればCQCはじめ細やかな操作による交戦から傷口の治療まで至るなど、フィジカルに注力したインタラクションが強化されてゆく。それに伴い、シナリオに漫然と漂うマチズモの気配も強まってゆく。初代『MGS』ではなんとか体よく(初代PSの表現力というリミットもあり)収まっていたものが、少なくとも自分にとってはだんだんと違和感が増えてきたころだ。世評として傑作とされる『MGS3』のストーリーあたりから耐えられないものを感じ、うんざりしたことを思い出す。

これはMGS以外でも見られ、『ANUBIS Z.O.E』で主人公のディンゴが巨大ロボット・ジェフティに心肺機能をフォローして同化した状態、など、とても男性的な主人公が肉体をテクノロジーに管理される姿が描かれたりする。(ただ『ANUBIS』のディレクターは村田周陽氏なので、どこまでこの設定に関与したのかわからないけれど)。

『MGSV』でフィジカルとテクノロジーの関係がリミットまで来て、そして(当時のコナミとの状況も含めて)崩壊して以降、なにかゲーム内である種の強さを見せつけることに限界が来ていたのは確かだ。『デス・ストランディング』のコンセプトに厭世的なそれを感じたのは、クリエイターの経歴も含めて感じたことでもある。

ポスト・ヒューマンという言葉を知ったのは後のことだが、『ある島の可能性』をはじめウェルベックのいくつかの作品はその視座に乗っ取ったものだという。社会に漂うある種の “男らしさ”から距離を取ったグロテスクな世界を描く。うんざりとさせながら、終わりゆく情緒的な印象を残す。

『デス・ストランディング』においてもポスト・ヒューマンの視座から、ある種商業のビデオゲームの価値について考えさせるものだ。人類はいずれ破滅することは逃れようもないなか、繋げる仕事を続ける。誰とも直接は繋がらない環境で、表向きは闘わないゲームプレイを目指す。過去の密接な銃撃戦や殺戮のゲームデザインにうんざりしながらも手を切ることができない。かつて絶対だった価値が壊れながらも、その価値を手放すことができないまま、遠くから見つめる感覚だった。

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